じじぃの「人の生きざま_143_ジュディ・オング」

ジュディ・オング - あのひと検索 SPYSEE
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ジュディ・オング - 魅せられて2004 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=A-yvBiIba1k
Judy Ongg [ It's a wonderful world] Singapore Concert 2008 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_2uoJ5UelsU
ジュディ・オング 版画「紅楼依緑」 画像
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Judy's World ジュディオング公式サイト
http://www.judyongg.com/
ジュディ・オング ウィキペディアWikipedia)より
ジュディ・オング (本名・帰化名:翁ジュディ{帰化当時は翁玉恵「おきな たまえ」}、旧名・台湾名:翁倩玉(ウォン・チエンユィ= Weng Qianyu)、英語名:Judy Ongg)は1950年1月24日・台湾出身の歌手・女優・版画家(版画家としてはジュディ・オング倩玉という雅号を使っている)。上智大学国際学部卒。出生地は台北市、貫籍(本籍地)は台南縣柳營郷。なお、語学が得意な彼女が話す言葉は母語である台湾語のほか、日本語、英語、北京語(中国の標準語)、スペイン語の5言語である。英語名であるオングは、台湾語泉州音による彼女の姓名(Ong1 Chhian3-gek8)から来ていると考えられる。
父方の祖父・翁俊明(台南人)は辛亥革命の歴史的人物であり医者、母方の祖父は台南の大地主・劉北鴻、また父・翁炳榮は中国広播公司ラジオ局長にしてGHQ心理作戦部チーフだった。
CBSソニー時代】
1973年日本コロムビアからCBSソニーに移籍。1975年、市原悦子主演のTBSドラマ「赤い殺意」主題歌「愛は生命」がヒット。
1979年に『エーゲ海のテーマ〜魅せられて』が200万枚の大ヒット。女性下着メーカーワコールのCMソングだが、彼女自身のエキゾチックで妖艶な雰囲気と、同年の日米合作の映画『エーゲ海に捧ぐ』のイメージともマッチし(同映画の主題歌ではないが、CMには映画にも主演したチチョリーナが出演し映画上映と同時期に放映されており、一種のタイアップである。英語のサビの歌詞の「Wind is blowing from the Aegean」は、「風はエーゲ海からふいている。」という意味である)、見事第21回日本レコード大賞を受賞。第30回NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。彼女自身のデザインによる、扇状に広がる袖がついた優雅な衣装も話題になった。デザインの趣旨はスクリーンドレスで、扇状に拡げた袖と胴全体に「エーゲ海の風景の映画を映す」というものであった。通常は扇状の袖の先を中指に引っ掛けるタイプだが、NHK紅白歌合戦などの大舞台では、棒を利用して彼女の手の長さよりさらに扇の面積を大きくしたバリエーションが見られた。現在でも彼女はTVで『魅せられて』を歌う際には必ずそのドレスを着る。この曲の大ヒットをリアルタイムで知る世代の人達で「シーツで真似した」と話す人も多い。またその衣装は小林幸子天童よしみらにも影響を与えている。当時、人気番組「8時だョ!全員集合」内では志村けんもパロディーを演じている。なお当初のコンセプトであった「袖と胴全体にエーゲ海の風景の映画を映す」は、披露のときには映像が間に合わず構想はお蔵入りとなり、2009年 - 2010年の「年越し雑学王」において、実に30年の時を経てスクリーンドレスとしての披露に成功している。
この1979年、アメリカのテレビドラマシリーズ「将軍 SHOGUN」のヒロインとして出演依頼があったが、『魅せられて』の大ヒットと時期が重なってしまい断念。結局、そのヒロインは島田陽子が演じ、島田はアメリカでも人気を得ることになった。
【芸能以外の活動】
1975年、棟方志功門下の版画家・井上勝江に師事、木版画家としての道がスタートする。以降1993年には初の個展開催、その後も日本国内をはじめ、台湾各地、ドイツ、フランスといった海外でも木版画展を精力的に開催している。版画では日展入選をはじめ、数々の賞を受賞しており、1995年には白日会正会員となっている。日本家屋をテーマとした作品は評判が高く、2003年には宇治の平等院鳳凰堂を100号の作品に仕上げた「鳳凰迎祥」が8回目の日展入選を遂げ、2005年3月、同作品が平等院に奉納された。

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文藝春秋 2012年5月号
時代を創った女⑦ ジュディ・オング――日・台・中をつなぐ「血脈と人脈」 【執筆者】野嶋剛(ジャーナリスト) (一部抜粋しています)
ジュディが生まれたのは1950年。日本には父の赴任に伴い、3歳で渡った。
最初は中華学校に通ったが、国際性を身につけるため、アメリカンスクールに転入。英語とスペイン語はそこで習得した。スペイン語は選択科目だったが、スペイン語に堪能だった米大統領夫人のジャクリーン・ケネディを尊敬していた母の劉雪娥がジュディに強く勧め、ジュディも熱心に学んだ。
9歳のとき、友だちに誘われ、劇団ひまわりに入団しようとしたが、父の翁炳榮は猛反対だった。その理由を、本人はこう説明する。
「私は業界のことを裏の裏まで知っている。芸能人がどれほど苦労し、仕事は大変で、徹夜もあれば酒も飲む、どれほど汚いことがあるかも。自分がそれを知っていて、どうして娘にその道を歩めと言えますか。私は、一般人の幸福な人生を歩んでほしかった」
ところが母・劉雪娥はやらせてみようという考えだった。
「ある日、一緒に歩いていたら、桜の花びらが落ちてきてジュディの頬にくっついたんです。ジュディが『あら、桜にキスされちゃった』って言ったのよ。私、この子のセンスは芸能界でやっていく素質があると確信ンしたのです」
以後、劉雪娥は今で言うステージママとなり、特に子役の時にはアメリカ車を買って学校までジュディを迎えに行き、ロケ場所に向かった。芸能人の社会的地位は当時、決して高くなかった。一般の日本人には手が出ない豪華な車に乗ることで「名家の出身」というプライドを示そうとしたのだった。
その後も劉雪娥はジュディとしばしば衝突を繰り返しながら、イメージ戦略、仕事のチョイス、芸能メディアの取材対応など、マネージメント全般を取り仕切り、ジュディが40歳を超えても大事なところでは口を出し続けた。
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1979年にCBSソニーからリリースされた「魅せられて」のヒットである。200万枚を超えるメガヒットとなり、ジュディはその年のレコード大賞に輝き、NHK紅白歌合戦の初出場も飾った。日本人は「魅せられて」を聴きながら、1970年代までの堅実な高度成長に別れを告げ、狂瀾の1980年代を迎えたのである。
この年はジュディにとっても9歳で撃団に入ってちょうど20年という節目にあたる1年であった。この1曲でジュディは日本社会を震撼さえ、「睡眠は1日3〜4時間、3度、救急車で運ばれる」という猛烈な忙しさに身を置き、予定されていたハリウッド映画「将軍」への出演も取りやめとなる。
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ジュディの堪能な英語、日本人的でない容姿、先鋭的な詞と曲、バブルが膨らむ1980年代を前にした華やかな時代の気分。そのどれかが欠けていても、これほどのヒットにはならなかっただろう。そして、「魅せられて」はその後の歌謡曲の「魅せ方」にも大きな影響を及ぼしていく。
ただ、「魅せられて」の成功は、ジュディにとって紛れもなく巨大な金字塔であったが、限りなく重い十字架を背負わせることになった。
芸能生活20年といっても当時のジュディはまだ20代。俳優としてのキャリアを確率しようとしていたが、「魅せられて」の後、基本的にジュディは歌手としての定位置が与えられ、役者のオファーは減っていく。
だが、1980年代は歌謡曲にとってもそれほど幸福な時代ではなかった。ヒット曲は続かず、ジュディはディナーショーやテレビの司会など小さな仕事をどんどん詰め込み、結局、1987年に2度目の大病を患って1年以上に渡って活動不能に陥った。
ここでジュディは自分を見つめ直すために、視野を広げようと決断する。米国に渡って経営セミナーに参加したり、各国の美術品を見て回ったりするなど、遅れてきた「自分探し」を始めたのである。
そんななか、「理想の相手」と思える男性に出会ったのは、30代後半に差し掛かるころだった。相手は、若き画郎経営者の鈴木洋樹である。
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一方で、中国語を話せなかった鈴木が、ジュディの持っている「血」の部分を最後まで理解できなかぅったことは想像に難くない。母の劉雪娥は何事にも饒舌に答える人だが、鈴木についてはひと言だけ「私たちの家に合う人ではなかった」と突き放して語った。
ジュディは半世紀にわたってトップスピードで走り続け、日本人から多くのことを学び、実践してきた。ジュディは「生みの親は台湾、育ての親は日本」と自分のオリジンを形容する。その言葉通り、ジュディは日本の戦後そのものに育てられたと言っていい。
ジュディは2度のインタビューとも和服で現れた。これほど普段着としての和服をしっくりと着ている人には最近あまりお目にかからない。着物の着付けは時代劇で何度も共演した山田五十鈴仕込みである。
沢村貞子には、日本語の使い方をたたき込まれた。例えば中国語では「先に行く」は「我先走」と言い、敬語は使わない。沢村貞子には「目上の人には行って参りますと言いなさい」と叱られた。演技では無理に笑おうとしているところを、勝新太郎に、「ジュディ、演技は感情を出し過ぎちゃいkない。抑え気味なぐらいがいい」と諭されたことが忘れられない。中村メイコには子役のころから可愛がられ、ジーンズの着こなしを教わった。ジェームス三木には芝居の世界に導かれ、演出家の木村光一に声の出し方を教わった。
このように書いてくると、まるでジュディという一人の人間に、戦後日本の芸能史が凝縮された感すらある。ジュディには「人間たらし」の特技があるのだろう。
政界の支援者で有名だったのは橋本龍太郎、亡くなるまでジュディ・オング後援会の会長を務めていた。最近は副首相時代の管直人がジュディの還暦祝いのパーティーに花束を持ってかけつけ、熱狂的なジュディファンであることを告白したばかりだ。
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こうした近現代史は、台湾において、台湾人でもあり、日本人でもあり、あるいは中国人でもあるという特殊な人々を産み落とした。ジュディはこの交錯する日中台の関係をきわめて鮮明に内在させる人であり、その運命は過去にジュディに試練や制限を与えたこともあった。
しかし、東アジアが中国の台頭によって世界の中心となり、日中台が様々な問題を抱えながらも新しい協力関係を構築しようとするいま、国境を越えた途端に何人(なにじん)にもなれるジュディは、限りないアドバンテージを持っている。
ジュディは台湾でも日本でも帰国すると「お帰りなさい」と言われ、中国に行けば、父親が上海生まれであるため、「娘家(故郷)へようこそ」と声がかかる。これほど、日中台の間を自由に移動できる人間は、ほかにはいないだろう。
「震災」を例に挙げてみたい。高雄でジュディ一家と会った日はたまたまだが、東日本大震災からちょうど1年を数えた日にあたった。
1999年の台湾大地震、2008年の四川大地震、そして、東日本大震災、日中台をそれぞれ襲った3どの災害で、ジュディはいずれも支援活動の先頭に立った。
台湾大地震では日本で台湾への支援を呼びかけ、四川大地震では自ら企画したチャリティーコンサートで中国への支援を呼びかけた。そして、今回の震災でもジュディは獅子奮迅の働きをみせた。台湾の駐日代表を務める馮寄台は「震災の直後、ジュディさんから携帯に電話があって、すごい勢いで何でもやるからできることを教えて欲しいと頼み込まれたんです。私からは台湾の状況を紹介し、テレビのチャリティー番組の企画などを伝えました」と話す。
ジュディはすぐに台湾に飛び、5日間続けて数多くの番組をはしごし、自分の版画もチャリティーに提供した。台湾のNETという衣料メーカーが3万着のフリースの提供を希望することを聞くや、海運会社エバーグリーンの張栄発会長に連絡して、コンテナを手配してもらった。ジュディの行動は芸能人の慈善活動の域を超えた迫力があり、台湾から日本に対して200億円という巨額の義援金が奇跡的に集まる一助になったことは間違いない。

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