じじぃの「人の死にざま_966_深沢・七郎」

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【邦画】 楢山節●考 FC2動画
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深沢七郎 ウィキペディアWikipedia)より
深沢七郎は、日本の小説家、ギタリスト。
【来歴・人物】
山梨県東八代郡石和町(現笛吹市)に生まれる。旧制日川中学校(現山梨県立日川高等学校)卒業。中学の頃からギターに熱中し、ギタリストとなる。1923年(大正12年)には京浜地方を中心に発生した関東大震災を生家で体験し、後に『庶民烈伝』において回想している。1954年、「桃原青二」の芸名で日劇ミュージックホールに出演した。
1956年に姥捨山をテーマにした『楢山節考』を中央公論新人賞に応募、第1回受賞作となった。三島由紀夫らが激賞して、ベストセラーになった。また、戦国時代の甲州の農民を描いた『笛吹川』も評判になった。しかし一度も芥川賞候補になっていない。
1960年に『中央公論』に発表した『風流夢譚』では、天皇・皇族が殺害されるシーンを描いたため、翌年中央公論社長宅が右翼に襲撃される嶋中事件が起こった(風流夢譚事件)。そのため筆を折って各地を放浪した。放浪中も『放浪の手記』などを執筆。
1965年、埼玉県南埼玉郡菖蒲町に落ち着き、上大崎の見沼代用水近くに二人の若者を連れて「ラブミー農場」を開き、以後そこに住んだ。
1968年10月31日、心筋症による重度の心臓発作に見舞われ、生死の境をさまよった。以後、亡くなるまでの19年間、闘病生活を送ることとなる。
晩年のラブミー農場には、嵐山光三郎赤瀬川原平らが招かれていた。嵐山は深沢を「師匠」と呼んでいる。
楢山節考 あらすじ ウィキペディアWikipedia)より
山に囲まれた信州のある村。今年も楢山の歌が歌いだされる季節になった。村の年寄りは七十になると楢山まいりに行くのが習わしで、六十九のおりんはそれを待っていた。息子の後妻も無事見つかって安心したし、山へ行く時の支度はととのえてある。済ませることはあともう一つ…。
−塩屋のおとりさん運がよい 山へ行く日にゃ雪が降る−
自分が行く時もきっと雪が降る…おりんはその日を待ち望む。
孝行息子の辰平は、お供で一緒に行くのだが、気が進まず元気がない。しかし家計を考えて年明けも近い冬の夜、誰にも見られてはいけないという決まりのもと背中に母を背負って楢山まいりへと出かけていく。辛くてもそれが貧しい村の掟なのであった。
【映像化】
・1958年映画化 - 木下惠介監督、田中絹代高橋貞二宮口精二市川團子ら出演。
・1983年映画化 - 今村昌平監督、緒形拳坂本スミ子、あき竹城、左とん平小林稔侍、倍賞美津子樋浦勉、江藤漢ら出演。カンヌ国際映画祭にてパルムドールを受賞している(仏題:La Ballade de Narayama)。

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『知識人99人の死に方』 荒俣宏/監修 角川文庫 2000年発行
深沢七郎(ふかざわしちろう) (1914-1987) 73歳で死亡。(一部抜粋しています)
「すぐに死ぬのだろう」と思った。
「どうせなら自分の部屋で死にたい」と深沢は自由のきかなくなった身体を隣の部屋のほうへと投げ出した。この日は昼から吐き気がして胃の調子がおかしかった。すると突然、胸の上に百貫分の重さが乗ったような苦しみに襲われた。深沢はすぐに、これは胃ではなく心臓の病気なのだと思った。
深沢は決して医者を呼ぼうとしなかった。病気というものは医学では治らないものだと決めこんでいた。もし治るとすれば、それは自分の身体の中に治ろうとする力があるからなのだ。
何時間たったろう。あたりは暗くなっていた。
すごい汗だった。汗が出たら不思議と苦痛は軽くなってきた。
昭和43年10月31日の午後3時から11月1日未明にかけての出来事である。
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深沢は初めての発作以来、夜になると悪寒が走るようになっていた。1回目の発作から10日の夜8時ごろ、2回目の発作が深沢を襲った。それは1回目よりもさらに苦しいものだった。みるみるうちに手のひらは茄子(なす)のように黒くなった。足の指先も次第に冷たくなっていく。深沢は「今度こそ死ぬのだ」と覚悟を決めた。ヒグマ(ボディガードとして雇われた同居人)も手足をさすりながら「これは死ぬな」と思った。その日の夜には臨終近し、と親戚や友人が集まった。深沢は遺言を頭に浮かべてみたりした。ところが苦しさは続くがいっこうに死ねない。深沢は周囲の気づかいが気にかかり始めた。これ以上、病院に行かないのは、よほどのわがままのように感じた。深沢は言った。
「ご心配をかけてすいません。村のお医者さんを頼んでください」
すぐに村の医者が呼ばれた。注射が2本打たれ、「狭心症です」と医者は答えた。
翌日の午後、救急車が呼ばれ、大宮市にある日赤病院に入院することになぅた。
「おじちゃん、病院で悪いようにはしないよ」かけつけていた甥の三人(みつひと)は深沢を元気づけた。
深沢はしみじみと言った。
「この世の中には恐ろしい病気があるねぇ。それは”死ねない”という病気だよ」
約2週間後、日赤病院を退院。万年床の横には酸素ボンベが用意された。死のリハーサルを2度も体験して、またいつかは死の本番を迎えなければならないのだ。
苦しみはもう1度どころではなかった。深沢は死ぬまで自分の病気は狭心症だと思いこんで疑わなかった。新聞や雑誌のインタビューでも狭心症、心臓喘息とかたっている。実際はもっとひどい病状だった。心筋症である。心臓が肥大していた。20年後の現在なら心臓移植さえ検討されていたかもしれない。
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昭和62年、ラブミー農場を開いて22回目の季節がやって来た。深沢はすでに73歳になっていた。このころ、以前大宮日赤に勤務していた大久保嘉明医師が菖蒲の隣町に開業し、深沢を週に1度、診に来るようになっていた。大久保が何度入院を勧めても深沢は首を縦に振らない。すでに往診で治療できる状態ではなかった。薬も効かなくなっていた。しかし、深沢は頑なに、入院することを拒んだ。相変わらず塩分を少しでもとりすぎると足がむきんでパンパンに腫(は)れてしまう。深沢は靴下のゴムの部分さえ、苦しいので切りとって履くようになっていた。
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8月18日、早朝。
深沢は起きたのが明け方の5時前。あたりは明るくなりかけたころだ。ヤギ(同居人)は、もう起きるのか、と思った。
深沢はサンルームになっている土間へ行き、ぬるめのお茶を入れ、小鳥に餌をやり、お気に入りの赤い散髪屋の椅子に腰かけた。頭上には日除けにもなっている葡萄の木が身をつけ始めていた。赤いデラウェアの実がなればもう秋だ。深沢は9月になったら葡萄パーティをやろうと友人に声をかけている。
しばらくたって、ヤギも起きてきた。いつものように食事のしたくを始める。このころ、深沢は味噌汁さえ飲まなくなっていた。午前6時過ぎ「そんなところで寝ちゃだめだ」とヤギが声をかけた。ところが深沢は起きない。
これまでも何度か、目をつぶったまま生きているのか死んでいるのかわからないような状態になることがあった。そんなときヤギは思いきりパンッと音がするほど背中をたたいた。すると、深沢はハッと昏睡状態から覚めるかのように目を覚ますのだった。
しかし、今日は背中を何度たたいても目をつむったままである。
ヤギは寝室に戻り大久保のところへ電話をかけた。
「なんか寝たままなんですけど」
大久保はすぐに農場へ車を走らせた。左手の入り口から土間へ回ると椅子に横たわっている深沢の後ろ姿が見えた。目をつぶったまま、体は右側に少し傾いたまま動かない。急いで脈をみる。すでにこときれていた。苦しんだ様子はなかった。

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