じじぃの「人の死にざま_964_池波・正太郎」

池波正太郎 - あのひと検索 SPYSEE
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作家 池波正太郎 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=3-WVUvaxyy8
鬼平犯科帳 (池波正太郎 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=YwAcVcYRH6U
池波正太郎記念文庫メインページ
http://www.taitocity.net/tai-lib/ikenami/
生誕90年 池波正太郎展 〜鬼平犯科帳剣客商売仕掛人・藤枝梅安を創った男〜 松屋銀座
開催期間:2013年8月28日(水)〜 9月9日(月)
http://www.matsuya.com/m_ginza/exhib_gal/details/20130828_ikenami.html
池波正太郎 ウィキペディアWikipedia)より
池波 正太郎は戦後を代表する時代小説・歴史小説作家。『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、美食家・映画評論家としても著名であった。
【晩年】
1989年、1月に昭和天皇崩御し、平成と改元。正太郎も前年末から体調は芳しくなかったが、回復を待って『剣客商売 浮沈』(「週刊新潮」2月号〜7月号)、『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』(「小説現代」12月号〜)、『鬼平犯科帳 誘拐』(「オール讀物」12月号〜)の連載を開始した。5月には銀座和光で個展「池波正太郎絵筆の楽しみ展」が開催された。明けて1990年、二代目中村吉右衛門主演のテレビドラマ『鬼平犯科帳』が好評を博し、2月には同優主演の『狐火』が歌舞伎座で上演されるが、正太郎の体調は依然芳しくなかった。3月、急性白血病三井記念病院に緊急入院、5月3日に同病院にて逝去。67歳であった。連載中の『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』と『鬼平犯科帳 誘拐』は同年4月号分で未完中絶となった。5月6日、千日谷会堂にて葬儀及び告別式。山口瞳が弔辞を読んだ。
鬼平犯科帳 ウィキペディアWikipedia)より
鬼平犯科帳』(おにへいはんかちょう)は、池波正太郎の時代小説。略称は鬼平
オール讀物」に連載された。火付盗賊改方長官・長谷川平蔵を主人公とする捕物帳で、『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』とならび人気を保っている。テレビ・映画・舞台・漫画化されている。

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『作家の四季』 池波正太郎/著 講談社 2003年発行
池波正太郎のシネマ通信 (一部抜粋しています)
4月の末から5月にかけて、おもいもかけぬ取り組み事がつづき、おもうように試写を観られなかった。あと一息、6月に入れば、もっと映画も芝居も観られようかとおもう。
今日は五月(さつき)晴れの好日で、仕事は詰まっていたが、おもいきって外へ飛び出す。
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<オーソン・ウエルズのフォルスタッフ>を観る。
いまは亡き、この稀代の天才オーソン・ウエルズに、もっともっと映画をつくられたかったという想いに駆られる傑作だった。
シェイクスピア原作による数篇の戯曲から、ウエルズ自身が脚本化し、監督・主演したもので、放蕩無頼の騎士フォルスタッフの、それだけにとどまらぬ深味をたたえたウエルズの演技もすばらしいが、モノクロの撮影(エドモンド・リシャール)による演出、その映像の見事さは比類がないといってよいほどだ。
イギリス、フランス、スペインの名優と精鋭によってかためられたキャストも凄いが、シュルーズベリーの合戦場面の迫力には圧倒される。黒澤明の<影武者>や<乱>など足元にもおよばない。
こういう映画を見ると、自分の心身が生き生きしてくるのが、はっきりとわかる。
この映画を観た夜は、興奮して、なかなか寝つけなかった。

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『知識人99人の死に方』 荒俣宏/監修 角川文庫 2000年発行
池波正太郎(いけなみしょうたろう) 1923年(大正12年) - 1990年(平成2年)) 67歳で死亡。(一部抜粋しています)
東京浅草生まれで、7代目の江戸っ子。小学校を卒業すると同時に株屋に勤め、戦時中は海軍航空隊へ。復員後、東京都庁に勤めるかたわら、長谷川伸に師事して新国劇の脚本を書きまくった。昭和31年に作家生活に入り、昭和35年に『錯乱』で直木賞受賞。以来、次々に世に問う作品群は戦国武将もの、忍者もの、江戸市井もの、幕末維新ものの4つに大別できる。食道楽ぶりもつとに有名で、小説のなかにもたびたび季節感あふれる料理が登場し、『散歩のとき何か食べたくなって』『食卓の情景』などの食にちなんだエッセイ集も多数ある。
昭和58年2月10日、池波は「還暦を思う人生」と題したエッセイを読売新聞に寄せた。
「若いころから、いつも死ぬときのはなしばかりするので、『そんなことで、よく生きていられますね。よく仕事ができますね』と、いわれたが、それとこれとは別ものなのである。人間の肉体は実にうまくつくられていて、たとえ一椀(わん)の味噌汁のうまさにも、生きる喜びを感じるようにできている。自分の努力が実を結ぶことに、快感をおぼえるようにできているのだ。……いずれにせよ、これからは最後の難関(死)へ向かわねばならないが、こればかりは未経験のことゆえ、不安だ」
昭和64年ころから体調を崩し、平成2年3月、東京神田の三井記念病院に入院。そのときすでに体重は激減。歩けなくなるほどだったが、入院直前まで『鬼平犯科帳』の原稿を書き続けていたという。入院後も血圧と脈が乱高下する状態だったが、少しでも体調がいいとペンを持ち、退院して執筆活動に戻ろうという執念をうかがわせていた。
そのときの様子を知人はこう語っている。「ベッドでしきりに文字を書きたがったのですが、力が入らないか判読できない。その中で”鬼平”と”梅安”という字だけが読めました」
5月3日に急性白血病で死亡した。

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