じじぃの「人の死にざま_959_御木本・幸吉」

御木本幸吉 - あのひと検索 SPYSEE
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その時歴史が動いた 第326回 養殖真珠 宝石界に革命を起こす 〜女性を輝かせた男・御木本幸吉〜 Pideo 動画
http://www.pideo.net/video/pandora/f037aa2878b52923/
「赤いハンカチ」 〜ぴかりんの町 美しい鳥羽マリンターミナルから〜 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_jFI0fbaQbA
三重講座>もっと丸ミエ! 三重の立ち寄りスポット Excite
http://media.excite.co.jp/News/special/aichi_expo/mie/tachiyori03.html
2010年 伊勢志摩(2日目) 
http://www.h2.dion.ne.jp/~koume/sub2-19.html
林先生の痛快! 「生きざま大辞典」 2014年1月2日 TBS
【MC】林修 【ゲスト】青木さやか菊地亜美北村晴男城田優中田敦彦
逆境に立ったときこそ、人間の真価が問われる! 数々の苦難を乗り越えてこそ、真の成功が得られる!
この番組では、人生のピンチを乗り切り成功を収めた先人たちや、大きな苦難&逆境を「倍返し」してきた人物の生きざまなど、近現代の偉人たちの生き方を実例をもとに紹介。
人生のヒントになるような生き方、ターニングポイントなどを解説していく。
●御木本幸吉・・・世界中から悪いウワサをたてられた養殖業者
林修が世界中から悪いウワサをたてられた養殖業者から賢く生きるための最強のヒントを解説。MIKIMOTOの創業者・御木本幸吉は、真珠の養殖を成功させいろんなバッシングが始まった。御木本は裁判で勝訴、エジソンも認める養殖となった。しかし、マネをする人たちが現れ中途半端な質の真珠が出回ったことで悪いウワサがたてられた。
http://www.tbs.co.jp/program/ikizamadaijiten_20140102.html
御木本幸吉 ウィキペディアWikipedia)より
御木本幸吉は真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。真珠王と呼ばれる。
【量産体制】
1924年大正13年)5月24日、パリで起こした真珠裁判にて天然と養殖には全く違いが無かったという判決を受け全面勝訴した。1927年(昭和2年)、フランスの裁判所から天然と変わらぬものとの鑑定結果の通知を受け、ようやく世界に認められる宝石となった。生産地も次第に英虞湾を中心とする志摩地方だけでなく、全国的に広げていった。1949年(昭和24年)、真珠養殖事業による国際親善に対して中日文化賞受賞。
幸吉は真珠と真珠貝の養殖成功にとどまらず、真珠を宝石市場の中心に位置させる為のあらゆる努力を惜しまなかった。
【大往生】
1954年(昭和29年)9月21日、御木本幸吉は老衰のため96歳で死去した。持病は胆石があったようで、看病の為に住み込みで身の回りの世話をした女医の話によると「真珠王と言われる方が、あまりにも質素な食事をしておられた事」に驚いたし待遇もしかりという次第であったようである。当時は朝鮮戦争が終わって景気は悪くなかったがまだ米穀通帳やら外食券食堂があり、旅行には米を持参する時代であった。

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『「万博」発明発見 50の物語』 久島伸昭/著 講談社 2004年発行
世界が驚いた御木本の真珠 (一部抜粋しています)
5000万人以上を集めた、19世紀最後にして最大の万博、1900年パリ万博。5回目となるこのパリ万博は、現在もパリにさまざまなものを残している。
現在も多くの来場者を集める美術館、「グラン・パレ」「プティ・パレ」。あるいは、1894年の露仏同盟の記念に、ロシア皇帝ニコライ2世の出席のもと、定礎式のおこなわれた「アレキサンドル3世橋」。そして「地下鉄1号線」も、この万博のために7月4日に開通した。「オルレアン新駅」も、万博に来場する人々のために設計されたものである。この駅は、その後、「オルセー駅」と改称され、1986年以降は「オルセー美術館」として、多くの来場者を集め続けている。また、リヨン駅は、この万博のために着工されたが間に合わず、結局1901年、万博終了後の完成となってしまった。
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さて、この1900年パリ万博にも、われわれになじみのある多くのブランドが出展している。万博の常連であるティファニールイ・ヴィトンをはじめとして、ショーメやルネ・ラリックエミール・ガレドーム兄弟などが、アール・ヌーヴォーの宝飾品やガラス作品を出展していた。また、スイスの時計メーカーのオメガは、金のケースにギリシャ神話をモチーフにした見事な彫り物を施した「グリーク・テンプル・ウォッチ」を筆頭にしたコレクションでグランプリを受賞し、同じく時計メーカーのゼニスも金賞を受賞している。バーバリーがコートを出展したという記録も残っているし、1884年創業のアメリカの万年筆メーカーであるウォーターマンは、万年筆部門でグランプリを獲得している。
こんな中で、日本のとある出展が評判になっていた。
御木本幸吉(みきもとこうきち、1858年(安政5年) 〜 1954年(昭和29年))が世界で初めて真珠の養殖に成功したのは、1893年、シカゴ万博が開催されていた年であった。その年、半円真珠を養殖で作ることに成功し、7年後の1900年パリ万博において早くも養殖真珠を出展して世界の注目を浴びたのである。
御木本は、1905年には真円真珠の養殖にも成功して、明治天皇に献上している。そしてその後1926年、アメリカ独立150周年を記念して開催されたフィラデルフィア万博では、法隆寺五重塔をモデルに作った「御木本五重塔」を出展した。これは、白蝶貝、プラチナのほか、真珠1万2760個を使用したもので、その貝工芸の精密さと、ふんだんに使われた養殖真珠で大きな評判になった。
また、再びヨーロッパにおいて1937年のパリ万博に、帯留め「矢車」を出展した。この複雑な作品は、全部で25の部品と1つのねじ回しから構成されていた。そのたった1つのねじ回しを使って25の部品を動かし、帯留め、ブローチ、髪飾り、指輪など、11通りに使い分けられるように作られていた。真珠は、中心となる8.75ミリのもの1個と、左右に3.5〜4.5ミリのものをそれぞれ20個、合計41個が使われた。「矢車」は、このパリ万博後に即売され、その後、行方(ゆくえ)がわからなくなってが、1989年に突然ニューヨークのオークションに現れ、落札された。現在は、三重県鳥羽市ミキモト真珠島真珠博物館に里帰りしている。
御木本は、続く1939年にニューヨーク万博には「リバティ・ベル」(自由の鐘)を出展した。これは、1776年7月4日、アメリカの独立宣言が採択された際に打ち鳴らしたリバティ・ベルを真珠で模したもので、なんと、1万2250個もの真珠と、366個のダイヤモンドが使用されていた。フィラデルフィア独立記念館に保存されている実際のベルの3分の1のおおきさで、本物の鐘と同じように、ひび割れまで青い真珠で表現されている。この真珠によるリバティ・ベルは「100万ドルの鐘」としてアメリカ中を驚かせたという。
こうして、数度の万博を経て、御木本幸吉は世界の「真珠王」の異名を取ることになったのである。

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