じじぃの「人の死にざま_947_荻村・伊智朗」

荻村伊智朗 - あのひと検索 SPYSEE
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福原、石川らが抱負 荻村杯卓球、6日開幕 動画 YouTube
http://www.tv-tokyo.co.jp/100japan/backnumber/0904.html
50年代・荻村伊智朗・田中利明卓球:卓球強化書│一流の技を動画で学べ!! 動画あり
http://takkyuudouga.com/100/post-125.php
荻村伊智朗

ハ・ジウォンペ・ドゥナ主演映画「ハナ〜奇跡の46日間〜」20日より日本公開 2013年04月15日 韓流・韓国芸能ニュースはKstyle
1991年、千葉で開催された世界卓球選手権に出場した、韓国と北朝鮮の南北統一チームの実話を基にした韓国映画「ハナ〜奇跡の46日間〜」が20日から日本で上映される。14日に東京都内で公開を記念するイベントが開かれた。
南北統一チームは国際卓球連盟会長だった荻村伊智朗さん(94年死去)の尽力で実現した。南北選手は開催地で合宿をし、大会では女子団体で金メダルを獲得した。
http://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=1966666&categoryCode=PU
荻村伊智朗 ウィキペディアWikipedia)より
荻村伊智朗(おぎむらいちろう、1932年6月25日 - 1994年12月4日)は日本の卓球選手。第3代国際卓球連盟会長。
【人物】
静岡県出身。都立第十中学校(現都立西高等学校)在学中に卓球を始める。東京都立大学に入学し、転学後日本大学芸術学部映画学科卒業。
1954年のイギリスウェンブリー及び1956年の東京で行われた世界卓球選手権で優勝した。シングルス・ダブルス・混合ダブルス・団体あわせて12のタイトルを獲得。引退後、スウェーデンへの指導など国際的な卓球の普及に努めた。『卓球はチェスをしながら100m走をするようなもの』という言葉を残す。これにジャン=フィリップ・ガシアン(フランス)は共感した。
日本卓球協会常任理事となった彼は後藤諟二会長と共に1970年に訪中し周恩来とも会談、1971年の世界卓球選手権への中国復帰に尽力した。
1987年に第3代国際卓球連盟(ITTF)会長に就任。国際卓球連盟会長として1991年に開催された第41回世界卓球選手権千葉大会では、大韓民国朝鮮民主主義人民共和国による統一コリアチームの出場を実現させた(同大会では女子団体で統一コリアが優勝している)。ITTF会長と同時に兼任していた日本オリンピック委員会JOC)国際委員長としては1998年の長野冬季オリンピック招致に尽力した。
また彼は卓球のイメージアップを図り、青い卓球台の導入、ラージボール卓球の開発、普及も行った。
1994年12月4日、肺がんにて死去。62歳没。没後の1997年に田中利明、松崎キミ代、江口冨士枝らと共に世界卓球殿堂入りを果たした。ジャパンオープン卓球選手権大会が荻村の死後に荻村杯国際卓球選手権大会に改称され、国際卓球連盟公認プロツアー公式戦として開催されている。
【主な戦績】
世界卓球選手権シングルス優勝2回(1954年、1956年)
世界卓球選手権ダブルス優勝2回(1956年、1959年)
世界卓球選手権混合ダブルス優勝3回(1957年、1959年、1961年)
世界卓球選手権団体優勝5回(1954年、1955年、1956年、1957年、1959年)
世界卓球選手権団体準優勝3回(1961年、1963年、1965年)

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クローズアップ現代 「変わる“1秒の重み”」 2012年7月5日 NHK
1秒や、それ以下という僅かな時間に知恵や技術を注ぎ込む私たちの社会。
トップスポーツは、その代表です。
そうした中、卓球の世界で一風変わった1000分の1秒レベルの闘いがあったことはあまり知られていません。
かつて世界選手権で合計12のメダルを獲得した名選手、荻村伊智朗さん。
引退後、国際卓球連盟の会長を務めた荻村さんが取り組んだのが当時、ネクラでダサイと言われた卓球の人気向上でした。
荻村さんは、1992年バルセロナオリンピックでラリーの回数とそのときの歓声の大きさを調査します。
その結果ラリーが7回続いたとき会場が最も沸くことが分かりました。
それまで平均4回だったラリーの回数をなんとか7回に近づけたい。
思いついたのは打球のスピードを1000分の数秒遅くするという奇抜なアイデアでした。
どうすれば卓球の魅力を損なわず打球のスピードをねらいどおり遅くできるのか。
荻村さんの依頼を受け、計算を行った流体力学の専門家、辻裕さんです。
辻さんはピンポン玉の重さや大きさを僅かに変えながら微妙な試行錯誤を繰り返しました。
辻さん、「卓球にとって1秒ってものすごく長いですよ。大体、返って来るまでが1秒もかからないですから0.2秒とか0.3秒ですから。素人は、ものすごく差が小さいと言いますけども一流プレーヤーにとったらもう差が小さくないんですよね」
たどりついたのは、球の直径をちょうど2ミリ大きくすればスピードが平均で1000分の4秒遅くなるという事実でした。
これが、2000年国際ルールとして採用されピンポン玉の新たな世界標準を生み出したのです。
この基準が採用されて以降プレーのスピード感は保たれたままラリーの数は増加に転じました。
1000分の1秒レベルでの試行錯誤が卓球に多くの人々を引き付ける一つのきっかけになったのです。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3225_1.html
『世界を変える100人の日本人!』荻村伊智朗 卓球で国と国を結び受けた日本人 2009年4月24日 テレビ東京
卓球選手として生涯で12個の金メダルを獲得した荻村。その記録は今でも日本人最多である。1950年代、当時ヨーロッパでは第2次世界大戦の敵国・日本に対して、反日感情が根強く残り、国際大会では日本チームに対するブーイングなどが頻繁に起こっていた。しかし、荻村のある人道的なプレーがきっかけとなり、日本人に対する世界の見方を変えていった。スポーツは人と人の出会い、その信念を持つ荻村は、卓球を通じた国際交流への活動を始める。まだ日本と国交がなかった中国から、荻村は卓球指導の依頼を受け、中国全土を回り、卓球の普及や選手の育成に尽力する。72年の日中国交正常化田中角栄周恩来が交わしたこの歴史的な出来事の背景には、荻村伊智朗の功績があったのだ。
http://www.tv-tokyo.co.jp/100japan/backnumber/0904.html
『スポーツが世界をつなぐ いま卓球が元気』 荻村伊智朗/著 岩波書店 1993年発行
世界チャンピオンになる (一部抜粋しています)
大学に入ってからは、日本大学に転校したり、いろいろなことがありましたが、とにかく卓球に明けて卓球に暮れるというような毎日でした。そして、努力のかいがあって、はじめて、世界選手権に出場できるようになりました。1954年のロンドン大会です。
ロンドン大会の代表選手は男女4人ずつです。ところが、はじめ日本卓球協会は6人ずつの候補選手を発表しました。なぜ4人も余分の候補選手を発表したかというと、卓球協会は当時お金がなかったからです。選手につくらせる以外には遠征費がないし、役員の分の一部まで選手につくらせようという考えで、一人あたり80万という遠征費の自己負担金を設定したのです。
当時の80万円は、おそらくいまの800万円くらいの金額です。みんなが80万円つくれるわけはありませんから、4人くらいは落ちて、8人は残るだろうという、したたかな計算だったと思うのです。
私は家に帰り「お母さん、80万円もっていけば世界選手権の代表にしてあげるというんだけれどもね」といいました。母は「8000円ならあるけれどね。8万円でも諦めるんだね」とため息をつきました。だまってしまった私に「心配することはないよ。私が断りにいってあげる」といって、日大の矢尾板監督のところへいき「うちの息子に限ってむりです。辞退さえてください」といって帰ってきたのです。私も「いわなければよかったな。むりもない」と思いました。
ところが、私が練習をしている「吉祥クラブ」の人たちが中心になって、募金活動をはじめてくれたのです。吉祥クラブは武蔵野卓球場を本拠地にしていました。この卓球場は私が高校3年のときにオープンしました。私がお金に不自由していることを感じとった経営者の上原さん夫妻は、卓球場のとなりの和室で経営している碁会所の店番兼碁の相手のアルバイトを私に提案してくれました。私はそこでアルバイトをしながら、卓球の練習にうちこむことができたのです。
クラブの仲間たちは、私にお金がないのはほんとうのことだと知っていました。そして、あれだけ熱心に練習しているのに、お金のせいでロンドンにいけないのは気の毒だと立ち上がってくれたのです。彼らは10円募金のために、卓球のボールの箱をもって、三鷹や吉祥寺、西荻窪荻窪の駅に立ってくれたのです。
      ・
いよいよロンドンに出発することになり、どういう飛行機に乗っていこうかということになりました。当時はジェット機がではじめたばかりで、イギリス航空ご自慢の”コメット”というジェット機が就航しはじめていました。ところが、これがなぜかイタリアのシシリー島の上空にくると、金属疲労で爆発して3回も落ちたのです。私たちは「安全なプロペラ機で行こう」と、エールフランスのプロペラ機で行くことにしました。
羽田空港の滑走路近くで、プロペラ機はいちど待機します。エンジンが回っています。団長は私の後ろの席にいました。10人ともはじめて海外遠征をするのですが、「荻村、おまえは英語ができるな」というのです。私は中学2年のとき、元外交官が主宰する私塾で大学卒業程度の人の行く国際通訳養成所にむりやり頼みこんで入れてもらっています。街にあふれる米軍の兵士をみて、これからは英語が必要な世の中になると思ったのです。そこへ通ったりしていたものですから英語に少し自信があります。
「先生、できます」といったら、「そこになんと書いてある」というのです。私はゆびさされた席の右手を見て、「先生、”引っぱれ”と書いてあります」というと、後ろで「引っぱれ」というのです。
ためらいもなくそれを引っぱったら、ドアがスポッとはずれました。ピューッとものすごい風が入り、私はドアの下じきになりました。押しもどそうとしたのですが、プロペラの風圧はたいしたもので、もどせません。ドアの下で必死にもがいていると、スチュワードが飛んできて「ムッシュー!」なんていいながら怒ってもどそうとしますが、だめでした。
      ・
試合がはじまると、私たちも「スポーツの本場、卓球発祥の地イギリスでやっと試合ができる。晴れ舞台だ」と、喜びいさんで試合場に入りました。ところが、観衆は日本人がにくいのです。スポーツの試合、とくに卓球やテニスではありえないことなのですが、日本選手がサーブミスをしても拍手するのです。どこの国の選手とやっていても、1万人ぐらいの観衆が、日本選手が1本とられればかならず拍手をします。
アイススケートを主にする体育館の氷の上に床を張り、仮設スタンドをつくっているのですが、拍手だけでなくて、そのスタンドを足で踏み鳴らすのです。だから拍手と足音で騒然となります。最初はびっくりして、これが紳士の国のイギリス人のすることかと思いました。
しかし、そうした雰囲気のなかで、私は昂然と頭を上に向けるようにしてふるまい、調子も上がる一方でした。
勝ちすすんでいくと、今度は観客だけでなくて審判も敵になりました。
よりによって、決勝ラウンドの団体決勝は日本とイングランドの試合になりました。その7番目に、私がバーグマンと対戦したのです。その1ゲーム(セット)目は私が勝って、2ゲーム目も18対12で勝っていました。そのとき、ボールがコロコロと転がっていきました。主審が台から飛び下りてボールを拾いにいってくれたのです。「親切な審判もいるな。自分も疲れているし、ありがたい」と思ったとたん、審判はボールを踏みつぶしました。そしてコチコチのボールをもってきて、「これでやれ」というわけです。
私は攻撃型ですから、スマッシュを打ちます。すると、ボールは硬いのでわずか2、3センチくらいですが、オーバーミスするのです。バーグマンは遠くにいて拾うタイプですから、ボールが少し硬くても困りません。「おかしい、入るはずだ」と思ってやっていて、気がついたら18対17になっていました。
そのとき悪だくみに気がついて、一瞬、顔から血が引くような感じがしました。ここで私が負けると、団体戦に負けてしまいます。ほかの日本選手は勝てない組み合わせになっていたので、もういちど気を引き締めてやっと勝つことができました。「イギリス人というのはほんとうに意地が悪いな」と思いました。
勝ちすすんでいくと、今度は観客のなかに、日本選手がスマッシュを打とうとすると、すぐそばのスタンドから身を乗り出して陸上競技のスターター用の号砲をドーンと撃つ人があらわれました。そのために日本選手がスマッシュをして、抗議の中断をします。40分間抗議をして、やっと点数がもとにもどるということもありました。このほか、ありとあらゆる意地悪をされたのです。
イギリス人はジョークが好きですから、なかにはユーモラスな意地悪もありました。新聞で「なぜあんなに小さくて黄色い日本人がよく跳ねるのかがわかった。彼らは石炭を食べてがんばっている」というのです。当時の日本大使は松本俊一さんというかたで、大使夫妻がおにぎりを差し入れにきてくれました。三角のおむすびのまわりに海苔(のり)が巻いてあります。それを石炭にみたてて、ジョークをいったのです。
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最終日の決勝戦の相手は、私と同じようにスポンジを使っているスウェーデンのフリスベルグという速攻選手でした。決勝は、夜7時からです。5時くらいには体調を整えて練習をしに行きました。するとフリスベルグがもう練習をはじめています。台はかたづけられて1台しかないので、彼が練習を終るまで待っていたのです。6時ちょっと前に練習が終わって、さあ私が練習だということで、仲間と練習をはじめようとしたら、電気をパッと消されたのです。
監督が「いまから荻村が練習するから、電気をつけてくれ」といいにいったら、役員が「『郷に入ったら郷に従え(When in Rome, do as Romans do)』という言葉を知っているだろう。イギリス人は1日3回お茶を飲むんだ。配電盤のカギをもった男はいまティーブレークだ。だから帰ってくるまで待て」というのです。
「これはあてにできない」と思って、壁打ちをしたりシャドウプレーをしたりして体調をととのえて、結局、試合前10分くらい練習ができただけで決勝戦に入りました。
フリスベルグは、スウェーデン選手権で69個の金メダルをとったという英雄的な選手なのです。つまり団体、シングルス、ダブルス、いまではシニアとかベテランとか、いろいろな種目がありますが、彼は生涯のうちでそれだけ金メダルをとったをとったという、とびぬけた記録を持つ名選手です。左ききで、台について速攻をかける選手なのです。
私は、速攻どうしならばぜったいに勝てるという自信がありました。日本では、攻撃対攻撃の試合ばかりやっているわけですから、そういう速い試合だったら勝てるのです。ですから、決勝戦はほとんど負けるという気はせず、いかに勝つかという考えでのぞみました。
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さて、試合が終わってイギリスを後にするときには、「イギリス人」というのは紳士の国だと聞いていたけれど、こんなに根性が悪いのか、2度とこんな国にこないぞ」とみんな思ったのです。しかし、それからつぎの年、3年後と行くようになると、向こうもこっちがわかってきたのです。「荻村というのはほんとうに上手だ。プレーもなかなかおもしろい」ということで、3年後にはファンになぅてくれて、負けそうになると拍手で応援してくれるようになってきました。
3年くらいしてからわかったことですが、国民感情はやはり教育の結果だと思います。戦争中、日本軍がさんざんなことをしたので、それに対する反日宣伝が行き届いていたわけです。それが生の感情をぶつけてくる態度になったのです。ところがおたがいに目でみてわかるようになって、なるほどと思って変わってくるのですから、イギリス人そのものがみんなひねくれているわけじゃないとわかってきたのです。

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