じじぃの「世界遺産・悲しみからの訣別・アルハンブラ宮殿!女ひとりロンドンを駈ける」

Espana - Andalucia - Granada 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=SS0av44hZXg&feature=related
サラ・ブライトマン / アルハンブラの想い出 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=qip8vMWUlWc&feature=related
ナルシソ・イエペスアルハンブラの思い出 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0ahMQDzx7AA&feature=related
アルハンブラグラナダの位置) 画像
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bb/Granada%2C_Spain_location.png
アルハンブラ Google 検索
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世界遺産ライブラリー [アルハンブラ宮殿] NHK世界遺産
スペイン南部アンダルシア地方のグラナダは、8世紀から約800年間イベリア半島を支配したイスラム勢力の終えんの地です。キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)によって覇権を奪われていったイスラムの王国が、丘の上に築いたのがアルハンブラ宮殿イスラム建築の最高峰と呼ばれ、滅び行く王国の最後の栄華を伝える宮殿です。
「シリーズ世界遺産100」では、宮殿のイスラム風建築や美しい装飾が、イスラムの人々の強い思いから造られたことを紹介します。王たちはイスラム芸術の粋を結集して、部屋内を飾りました。壁はアラベスク模様で覆われ、天蓋には砂漠の夜に輝く満天の星が表されています。中庭は砂漠のオアシスが表現された造りになっており、そこには常に水が溢(あふ)れていました。砂漠の民イスラムの人々にとって水は生命の象徴であり、水が溢れる宮殿は地上の楽園だったのです。中庭に張られた池には水面に建物が映り込み、ゆらめいています。その様は、まるで砂漠に現れる蜃気楼のようで、アルハンブラの幻想的な美しさを際立たせています。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards142.html
『女ひとりロンドンを駈ける』 古勝信子/著 光人社 1992年発行
悲しみからの訣別 (一部抜粋しています)
病気ひとつしたことのない夫が、体の不調を訴えはじめたのは前年の6月のことだった。微熱がつづいていたので近所の病院に行ったところ、風邪だといわれた。薬を飲むと一時的には熱が下がるが、また発熱する。その繰り返しで、いっこうによくならないため、親戚の病院で精密検査を受けることになった。
結果は肝臓ガン。それも末期で、あと2ヵ月の命だといわれた。それを聞いた瞬間、私は気を失いそうになった。自分を支えているのがやっとで、もう医師の言葉も何も耳に入らなかった。私にとって、死刑を宣告されたのと同じだった。
夫はそのまま入院することになった。親戚ということで、広い特別室を用意してくれたので、そこに簡易ベッドを持ちこみ、私も寝泊まりすることのした。残されたわずかな日々を夫のために、精一杯尽くしたい。私にできることといえば、それしかなかった。
夫にはガンであることを知らせなかったが、入院してすぐ腹水が溜まって身動きがきかなくなったため、私が病院に泊まり込んでいても不信がるようすはなかった。もちろん夫の前では、いつも通りに振舞った。
結婚して31年、警察官だった夫は仕事が忙しく、私も4人の子供を育てるのに必死だった。やっと子供たちも社会に巣立ち、これからは夫とふたりでゆっくり余生を楽しもうと思っていた矢先に、不治の病に冒されてしまったのだ。
夫とふたりきりの生活は、病院の個室で、しかもたった2ヵ月しか許されない。退院したらあれもしたい、これもしたいと楽しそうに話す夫を見ていると、辛くて辛くてたまらなかった。でも、涙を見せることはできない。毎晩、部屋にあるシャワーを浴びながら、その音に紛れて泣いた。
日に日に夫は弱っていった。そして医師の宣告通り、入院して2ヵ月後の8月31日、うだるような暑い日に帰らぬ人となった。
魂を失ってしまったようになりながらも、間近に迫った初孫の誕生が私の心の支えだった。亡くなった夫も、何よりも孫の誕生を楽しみにしていたのだ。
ところが、長男の嫁は私に夫の死で心労が重なり、葬式の10日後に死産した。あまりのことに涙も出なかった。
しかし、不幸はまだつづいた。高齢だった私の父が二重のショックで寝込んでしまい、その3ヵ月後には2人の後を追うように亡くなってしまったのだ。
私のなかで何かが、ガラガラと音をたてて崩れていった。私にはもう、何もない。夫を失い、初孫を失い、そして父までも……。いったい、私が何をしたというのだろう、この世には神も仏もないのか、と毎日、気も狂わんばかりだった。
くる日もくる日も、ただただ泣いているだけだった。涙もなにも枯れ果てても、心の痛みが和らぐことはなかった。
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新盆も無事に終え、ひとり夫の遺影敬の前に座っていたときのことだった。ふと夫の言葉を思い出したのだ。「退職したら一緒に海外旅行に行こう。ずいぶん、世話をかけたからな」
そうだ、写真の夫と2人で海外旅行に行こう、後を振り返って悔やんでみても、そこからは何も生まれてこない。夫が与えてくれたこの自由な時間を、無駄に過ごしては申し訳ないではないか。そう思った瞬間、わずかではあるが暗闇の中でやっと光が見えてきたような気がした。
帰宅した娘たちにそのことを話すと、自分のことのように喜び、大賛成してくれた。いつまでもふさぎ込んでいる母親のことを心配していたのだろう。娘たちにもずいぶん、迷惑をかけてしまった。
翌日にはさっそく長女が、海外旅行のパンフレッドをひと抱えも持ってきた。娘たちとあれやこれや悩みながら選んでいたところ、幼なじみの秀子さんがスペインのサラマンカにいることを思い出した。
秀子さんとは故郷の徳之島で、空襲に逃げまどいながら、一緒に遊んだり話をしたりした仲だった。終戦後、彼女はおにいさんを頼って神戸に行き、その後アメリカ人と結婚し、スペインに住んでいた。
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ふたたび秀子さんがマドリッドまで迎えにきてくれていた。その夜はマドリッドに泊まり、翌日に秀子さんと2人で南スペインへ旅立った。トムソン氏が、私のためにこの旅を計画してくれたのだ。
ツアーのメンバーはほとんどがスペイン人で、あとはアメリカ人の夫婦、フィリピン人、コロンビア人、日本人は私たちだけだった。7時にバスで出発し、アランフェス、ラマンチャ、アンダルシアなどを回った。
窓外には赤土色のオリーブ畑が果てしなくつづき、南国の太陽がまぶしく輝いていた。初めてみるラマンチャの風車。雲ひとつないまっ青な空と白壁の家々。ロンドンの人間を圧倒するような歴史的な重みと存在感に対して、南スペインは大自然が息づく開放的な魅力にあふれていた。
ガイドはスペイン語と英語で説明していたが、どちらも私には理解不可能。ジョークをいっているのだろうか、時おり私以外の全員がドッとわいた。私は秀子さんの通訳で、ワンテンポ後れて笑うしかなかった。言葉がわからないのだから仕方のないことなのだが、いかにも間の抜けた感じだった。
夕方、グラナダに到着した。ホテルの窓から遠くの丘に灯が見えた。
「あの辺りはジプシーが住んでいるのよ。治安がよくないから、旅行者は近寄らないようにっていってたわ」
秀子さんがいった。異国情緒あふれる南スペインに来て、ロマンチックな気分にひたっていた私は、スペインの知られざる一面を見せつけられる思いだった。この世に桃源郷はない、ということだろうか。
夕食は全員が盛装して、ホテルのレストランに集まった。私たちはアメリカ人夫婦と同じテーブルについた。そのご夫婦は夫の退職後、世界中を旅行しているそうで、日本へもいったことがあるとのこと。
仲睦まじい2人を前にして、”世界中とはいわないまでも、私も夫と海外旅行をしたかった……”そんな思いが胸をよぎったが、せっかくの楽しいディナーの席で悲しい顔はできない。悲しみと訣別するためにここに来たのだから、と自分にいいきかせた。
英語ができない私は、秀子さんの通訳で会話に参加していた。40年余り前、徳之島の片田舎で一緒に遊んでいた秀子さんが、流暢に英語を話しているのを見ていると、あらためて驚きと羨望を感じた。
彼女にしてみれば、必要に迫られてのことだったろうが、私もせめて英語ぐらい話せたらもっと楽しいだろうにと、思わずにはいられなかった。
翌日、アルハンブラ宮殿を見学した。南スペインの旅は見るものがすべて珍しかったが、とりわけこの宮殿の美しさといったら筆舌に尽くしがたかった。こんなにも美しい建物が数百年も前に造られたのかと思うと、人間は果たして進歩しているのかと疑いたくなるほどだった。

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どうでもいい、じじぃの日記。
ぼけっと、古勝信子著 『女ひとりロンドンを駈ける』という本を見ていたら、「アルハンブラ宮殿」が出てきた。
アルハンブラ宮殿は、スペイン南部アンダルシア地方のグラナに13世紀前半より建築が始まり、14世紀中頃完成した。当時グラナダイスラム系王朝ナスル王国の首都であった。グラナダの丘に築かれたアルハンブラ宮殿は、イスラム建築の傑作といわれ、世界でもっとも美しい建築の一つといわれている。アルハンブラ宮殿と聞いてすぐ思い浮べるのが、ギター曲「アルハンブラ宮殿の思いで」だ。
「くる日もくる日も、ただただ泣いているだけだった。涙もなにも枯れ果てても、心の痛みが和らぐことはなかった」
著者は夫をガンで失うという悲しみからの訣別のために、南スペインに旅立った。
「翌日、アルハンブラ宮殿を見学した。南スペインの旅は見るものがすべて珍しかったが、とりわけこの宮殿の美しさといったら筆舌に尽くしがたかった。こんなにも美しい建物が数百年も前に造られたのかと思うと、人間は果たして進歩しているのかと疑いたくなるほどだった」
いつかくる、最愛の人との別れ。このエッセイを読んでいて、胸が熱くなった。
スペインのアルハンブラ宮殿1984年に、元々のイスラム教徒の居住区であるアルバイシン地区は1994年に、文化遺産として、ユネスコ世界遺産リストに登録された。