じじぃの「人の死にざま_900_伊庭・貞剛」

伊庭貞剛 - あのひと検索 SPYSEE
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名言・格言の活かし方 〜伊庭貞剛〜 動画 YouTube
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住友人物列伝:伊庭貞剛 住友の歴史と事業精神
http://www.sumitomo.gr.jp/history/person/index15.html
伊庭貞剛 ウィキペディアWikipedia)より
伊庭貞剛(1847年2月19日(弘化4年1月5日) - 1926年(大正15年)10月22日)は、第二代住友総理事である。明治時代の実業家。「別子銅山中興の祖」といわれ、明治時代に東の足尾、西の別子と言われた、住友新居浜精錬所の煙害問題の解決にあたり、環境復元にも心血を注ぎ、企業の社会的責任の先駆者と言われている。元聖心女子学院理事長、カトリック修道会の聖心会元東洋管区長・元日本管区長の伊庭澄子修道女は孫。

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『本物に学ぶ生き方』 小野晋也/著 致知出版 2009年発行
環境問題に立ち向かった男 伊庭貞剛(いばていごう) (一部抜粋しています)
明治の中期、別子銅山の公害問題に揺れる愛媛県新居浜の地で、自らの信念に基づいて、力強くその困難を乗り切った伊庭貞剛の人生と思想について紹介したいと思います。
伊庭が新居浜にやって来たのは、明治27年、その頃、別子銅山に起因する3つの問題がありました。
当時の日本は日清戦争に備えるため、また、国を富ませるためにさまざまなインフラ整備を行わなければならず、そのために必要とされたのが銅でした。
そこで、別子銅山の生産量は次第に増え、隆盛をきわめるに到りましたが、同時に大きな問題が発生していたのです。銅の生産過程で亜硫酸ガスが大量に発生し、農産物を次々と枯らしていたのです。そして、農民の暴動が起こるような状況が生まれていたのです。煙害問題、いわゆる公害問題です。これが問題の1つです。
また、鉱山業というのは非常に多くの木材を使います。鉱石を掘り出すために穴を次々に掘るのですが、その堀った穴を崩さないように木材で支えなければなりません。その木材を周囲の山々から切り出します。また、細い木や枝は炭にして、精錬などで使う燃料にしました。ですから、小さな木々まで切られていくということが起こったのです。
さらに、そこに亜硫酸ガスが山肌を這(は)うように流れると、植物の根まで枯れてしまい、もう芽を吹くことができなくなってしまいます。その結果、辺り一面、草木一本もなくなるという風景が生まれました。まさに地獄絵図のような景観です。
その山に大量の雨が降れば何が起こるかといえば、山崩れ、または鉄砲水です。それによって、多くの人が死んでいきました。これが2つ目の問題です。
3つ目は人心の荒廃です。今まで述べたような騒然とした状況の中で、地域の住民の心が非常にささくれ立っていました。そして、そのすさんだ心から労働争議が起こっていました。
これらの問題を解決したのが伊庭貞剛という人物です。
別子銅山は住友によって経営されていました。伊庭はその住友の現地の責任者として新居浜にやって来ます。明治27(1894)年2月のことです。これらの問題の解決が伊庭に与えられた仕事でした。
彼は、まず煙害問題に対しては、銅山を下ったところの浜辺に立っていた精錬所を瀬戸内海絶海の孤島といわれた四阪島に移転する大決断をします。そのためにかかった資金は、売上高の1.数倍。伊庭は、単に公害対策のためだけに、それだけの投資をして精錬所を移転しました。
当時、新しい設備を入れて、より生産性が高い工場をつくるという目的での工場移転はあったかもしれませんが、純粋に公害をなくすためだけにこれだけの投資を行ったという事例は、おそらく世界の歴史上にもなかったことでしょう。
山の緑を失ったという2つ目の問題に対しては、「こんなことでは、神様や仏様に申し訳がない。自分はこの山々を、これまであった以上の豊かな緑の山にしてみせるのだ」と言って、大規模植林を行ないます。
彼は年間100万本に及ぶ大植林を毎年毎年続けさせる、そのきっかけをつくりました。100万本というと、なかなか想像できないかもしれませんが、現在、林野庁が年間に行っている植林が千数百万本。これは日本全国での数字です。ですから、別子銅山だけに年間100万本の植林を毎年行ったというのは大変なことです。
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3つ目の人心の荒廃に対しては、伊庭は細かな心遣いをして、行き交う人にも丁寧に声を掛けながら、その人心を取り戻すことに取り組みました。伊庭の心遣い、そして誠心誠意の姿勢。こういうものを地域の人が認めるに至って、人心の荒廃は徐々に解消されていったといわれています。
今でこそ公害問題、環境問題と言えば非常に大事な問題となっていますが、国が富み栄えることが何より大事だといわれ、国民一人ひとりの人権感覚というものもそれほど強くなかった明治の時代に、これだけのことを成し遂げた伊庭は環境問題における世界の先駆者とも言えるでしょう。

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伊庭貞剛の言葉
「事業の進歩発達に最も害をするものは、青年の過失ではなくて老人の跋扈(ばっこ)である」

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