じじぃの「人の死にざま_852_J・ラマルク」

ジャン=バティスト・ラマルク - あのひと検索 SPYSEE
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ジャン=バティスト・ラマルク ウィキペディアWikipedia) より
ジャン=バティスト・ピエール・アントワーヌ・ド・モネ、シュヴァリエ・ド・ラマルク(1744年8月1日 - 1829年12月28日)は、ブルボン朝から復古王政にかけての19世紀の著名な博物学者であり、biology(生物学)という語を、現代の意味で初めて使った人物の一人である。
【経歴】
ラマルクは貧しい下級貴族の家に生まれ、従軍の後に博物学に関心を持ち、フランスの植物相に関する多数の著書を著した。これによって、ビュフォンの関心を引き、フランス自然誌博物館の職に就く事になった。
1789年、フランス革命が起きた際に彼はこれを熱烈に歓迎し、貴族の称号を破り捨てたりした(終生革命の意義を擁護したことから後世の革命思想家に大きな影響を与えた)。
植物研究に専念した後、彼は無脊椎動物(彼が作ったもう一つの言葉である)の管理者となった。彼は一連の公開講座を開いた。1800年までは、彼は種の不変を信じていた。パリの軟体動物に関する研究の後、彼は次第に、長い時間の中で、種が変化するものであるとの確信を持つに至った。彼はその説明を考え、大筋を彼の1809年の著作『動物哲学』の中に記した。彼の進化論は一般に用不用説と呼ばれる。
ただし、この『動物哲学』は学術書ではなく、啓蒙書・教科書的な書物である。この書の内容は、ラマルクが新しく唱えた説ではなく、当時博物学界で一定の支持を得ていた説であり、彼はそれを大衆に広めたにすぎない。また、この書の主題も用不用説ではなく、もっと広く進化と遺伝全体について論じたものである。

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動的平衡2 生命は自由になれるのか』 福岡伸一/著 木楽舎 2011年発行
遺伝は本当に遺伝子の仕業か? (一部抜粋しています)
数百万とも数千万ともいわれる生物の多様性が、すべて単一の生命の起源から出発した進化の産物であることは、DNAとタンパク質の文法が単一であるというこの事実が明確に示している。
そして、さらに大きな示唆は、その単一の起源から出発した生命が、文法を継承しながらも、文章自体は少しずつ変えていった、その結果として生命の多様性が獲得されていった、ということ。すなわち進化が起こった、ということである。
このあたりまえのことを、人間がきちんと認識するためには時間が必要だった。そのためには。まずこの人物について語らねばならない。
ジャン・ラマルクは1744年、北フランスの小村に生まれた。下級貴族の家系で、裕福とはいえなかった。ラマルクは、自然が好きな少年だったが、父は、彼を牧師学校の寄宿舎に入れ、聖職につけさせようとした。
ラマルクはそこがなじめなかった。むしろもっと直接的な行動によって国のために尽くしたいと考えた。時はフランス革命へ向かう時代だった。彼は寄宿舎を飛び出し、軍人を目指した。そしてドイツとの戦争に加わった。理由は不明だが、まもなく退役した。下級貴族には栄達の道が閉ざされていたからかも知れない。彼はパリに出た。
この頃のラマルクについてはよくわかっていないが、彼の本来的な興味、つまり自然に親しんで、それを書き直すという行動を開始した。1778年、ラマルクは『フランス植物誌』を著した。これは非常に詳細な植物図鑑で、たいへんな評判となった。王立の植物園の研究員の職を手に入れ、植物研究をこつこつ行うことができていたのだ。
1789年、フランス革命が勃発する。ラマルクは革命を熱烈に支持した。しかし王政の否定は、王立植物園の研究員という彼自身の身分を危うくすることになった。革命後、ラマルクは、新たに造られた博物館になんとか研究の場を得た。
しかし、そこは彼の好きな植物学の分野ではなく、誰にも顧みられることのなかった無脊椎動物の分野だった。無脊椎動物よは文字通り背骨がない生物、カイチュウ、ナメクジ、ミミズ、ヒトデ、カイメンなどなど、たぶん不満だったのかもしれない。しかし、彼は気をとりなおして研究を始めた。
その頃の研究とは、生物を「分類」することに尽きた。ラマルクがこのとき、無脊椎動物の研究に取り組まなかったら、生物学の歴史はまったく違ったものになったはずである。それまでの分類額は、きわめて恣意的な基準によってなされていた。見た目の色や形、あるいは人間にとっての有用性、そんな程度の分類だった。ラマルクは、できるだけ生物のからだの「機能」と「成り立ち」をもとに分類しようと務めた。
たとえばイソギンチャクは、からだ全体が袋のような形をしていて、餌を取る口も、糞を捨てる口も同じである。それがミミズでは、消化管を持ち、口と肛門が別かれる。つまり袋状のからだは、管状のからだになり、より便利に、より機能的になった。
エビやカニになると、捕食のための口や胃袋、腸ができて消化管はより複雑になり、呼吸のためのエラもできる。
このように生物を調べてみると、からだのつくりや働きが、簡単なものからより複雑なものへ、それまで一緒くたになっていたものが、それぞれ独立・分担するように、しだいに移りかわっていることが見てとれる。
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現在、私たちは、この認識を当然のことと受け止めている。しかし、ラマルクが『動物哲学』(1809年)という著書で世に問うた時は、ほとんど認められることはなかった。なぜなら、すべての生物は神が一挙に創造したと固く信じられていたのだから。1829年、ラマルクは不遇と失意の中で死んだ。
パリの自然史博物館附属植物園にラマルクの胸像がある。そこには晩年、目が見えなくなったラマルクの執筆を助けた娘コルネイユの言葉が刻みこまれている。
「後世の人びとはあなたを讃え、あなたのために復讐してくれるでしょう、お父さん」

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