じじぃの「人の生きざま_109_A・フジモリ」

アルベルト・フジモリ - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%B8%E3%83%A2%E3%83%AA/2846/
フジモリ大統領 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=JdS0aCxOTKg&feature=related
ペルー日本大使公邸 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=BW8-g46PFNk&feature=related
ケイコ・フジモリ氏、ペルー大統領候補の横顔 2011年06月04日 AFPBB News
ペルーで初めての女性大統領を目指すケイコ・フジモリ(Keiko Fujimori)氏は弱冠36歳かもしれない――だが、彼女には、19歳のころから父、アルベルト・フジモリ(Alberto Fujimori)元大統領のファーストレディーを務めてきた経歴がある。
http://www.afpbb.com/article/politics/2803990/7293662
アルベルト・フジモリ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
アルベルト・ケンヤ・フジモリ・フジモリ(Alberto Kenya Fujimori Fujimori、現日本名:片岡謙也 1938年7月28日 - )は、第91代ペルー大統領(在職:1990年7月28日 - 2000年11月17日)。
ペルーの公用語であるスペイン語ではハ行の発音に近く、ペルーを含むスペイン語圏での発音は「フヒモリ」のほうが近い。学位は農業工学修士(ラ・モリーナ国立農科大学)、数学修士 (ウィスコンシン大学ミルウォーキー校)。
【来歴】
1938年ペルーの首都リマのミラフロレス区生まれ。両親は日本の熊本県飽託郡河内村(現・熊本市河内町)出身であり、ペルーに1934年に移住した移民である。彼が誕生すると両親はリマの日本公使館に出生届を提出して日本国籍留保の意志を表したため、フジモリは日本国籍保有することになった。
1961年農業工学専攻をクラス一位の成績で卒業した。翌年同大学で数学の講師、1968年に助教授、1971年に教授に昇進。その間、1964年にはフランスのストラスブール大学に留学、さらにフォード奨学金を得てアメリカ合衆国ウィスコンシン大学ミルウォーキー校大学院に留学。一般数学と物理学の修士号を取得している。その後母校である国立農業大学の理学部長に就任し、1984年には同大学総長に任命された。
1990年の大統領選挙に新党Cambio 90(カンビオ・ノベンタ)を結成して出馬したフジモリは当初ダークホース的存在であったが、対立候補の世界的作家マリオ・バルガス=リョサを破り当選した。
フジモリは大統領に就任したものの、議会はアメリカ革命人民同盟と右派連合・民主戦線の二政党が上下院ともに支配していた。自身の政策を円滑に進めるための新法立法を望んだフジモリは、1992年4月5日に自身の政府に対してクーデター(アウトゴルペ)を実行した。フジモリの目的は大統領の権限を強化し、政府と国会の改革を断行することにあった。フジモリの支持者にはこれがクーデターではなく、政府業務の効率化のための改革にすぎないと主張する者もいるが、国内外においてはより急進的で権威主義的なクーデターであるとみなされている。
2000年9月、フジモリ大統領の側近であるウラジミロ・モンテシノス国家情報局顧問が国会議員の一人に現金を手渡している映像が映されているビデオを、別の野党議員たちが公開する。この側近の問題をきっかけにフジモリ大統領の疑惑も浮上し、ペルー国会は反フジモリに傾いていった。
2005年10月、彼は2006年に行われる大統領選挙に出馬するために日本を離れ、まずチリに向かったが、11月7日チリの警察に逮捕された。2006年1月、ペルー中央選管は大統領選出馬を認めない旨最終決定する。
なお、フジモリの公金横領罪についてペルー最高裁は証拠不十分として2005年10月に無罪判決が出ている。

                          • -

『世界の「いま」がスッキリわかる! 逆さ読み世界史』 歴史の謎研究会/著 青春出版社 2011年発行
ペルー 政治体制がめまぐるしく変化するペルーの新たな問題 (一部抜粋しています)
ペルーのガルシア大統領は、2011年3月に起こった東日本大震災の発生から1週間後の3月18日を「服喪の日」と定めるという大統領令を出した。「なぜペルーの人々が日本の震災の犠牲者のために?」と思う人も多いだろう。しかしペルーには9万人の日系人がおり、日本にも約6万人のペルー人が住んでいる。
また、日本からの”移民の子”であるアルベルト・フジモリ氏が1990年から長期間にわたって大統領を務めていたこともある。残念ながらスキャンダルによって罷免され、現在は裁判が進行中だが、そんな意味でも日本にはなじみ深い国である。
そんなペルーだが、ほかの南米諸国と同じように政局の不安定な国だ。民政と軍政がめまぐるしく変化するのが、その特徴である。
たとえば20世紀初頭には、民政が長い間続き、近代的な国家を目指したものの結局は莫大な借金を残して退陣している。すると今度は軍政となるが、それも長くは続かずに民政にとって代わり、1948年には再び軍政が始まるのだ。
1963年にはフェルナンド・ベラウンデが軍政を敷くが、1968年にクーデターが起こり、ファン・ベラスコ・アルバラードが大統領に選ばれる、積極的な農業改革や石油とマスメディアの国有化など積極的な政策を推し進め、その後も彼の政策を受け継いだ軍政が続くが、民政を求める声が強く、やがて憲法改正が行われている。
このように頻雑に政治体制が変化するために国家としての形を根本から変えることができず、多くの社会問題が山積みになったままだった。特に貧富の差は大きくなる一方で、今でも生活に困窮する人々があふれている。
このような社会不安のなか、1980年頃からセンデロ・ルミノソやMRTA(トゥパク・アマル革命運動)による武装闘争が始まり、その後10年間にわたってペルー社会には動揺が続いた。しかも1985年以降はハイパーインフレが国を襲い、経済的にもどん底の状態になっている。
日系人フジモリ大統領が誕生したのは、そんな社会的状況の真っ只中だった。
フジモリ大統領はまず社会の安定のためにテロ対策を強化し、テロ組織の指導者たちを次々と逮捕する。その結果、1995年に再選を果たすのだ。その翌年にはMRTAによる「日本大使公邸占拠事件」が起こるが、約5ヵ月後には人質全員が無事に解放され、この後の選挙でもフジモリ氏はまたしても再選を果たしたのである。
       ・
先住民などを中心とした深刻な貧困層から生まれたテロやゲリラ活動は、近年ようやく沈静化しつつあるといわれる。
しかし、ペルー全体を覆う貧困の問題は相変わらず改善されておらず、それはそのままコカインなど麻薬の不法取引の横行という新たな社会問題として噴出している。
政治と麻薬との関係を根源から解決しない限りは、ペルー社会に新しい路は開けないともいわれており、今やそれがペルーが抱える新たな課題でもあるのだ。

                          • -

アルベルト・フジモリ Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&aq=f&oq=%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%B8%E3%83%A2%E3%83%AA&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%B8%E3%83%A2%E3%83%AA&gs_upl=0l0l0l78lllllllllll0&oi=image_result_group&sa=X