じじぃの「人の死にざま_843_S・ヘディン」

スヴェン・ヘディン - あのひと検索 SPYSEE
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1928 m.ekspedicija per Gobio dykuma/1928 Gobi Desert expedition 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=BepO6625as8
シルクロード1 (流砂の果て) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=4O6qv-2BhQA
Loulan 画像
http://history.cultural-china.com/chinaWH/upload/upfiles/2009-10/10/culturalchina545877965b7beb4fb99e.jpg
Loulan Google 検索
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スヴェン・ヘディン ウィキペディアWikipedia)より
スヴェン・アンダシュ(アンデシュ)・ヘディンはスウェーデンの地理学者・中央アジア探検家。
【経歴】
ストックホルムで建築業を営む中流家庭に生まれ、小学校の同級生には経済学者グスタフ・カッセルや数学者イヴァル・フレドホルムなどがいた。
ロシアのオレンブルクからウラル山脈を越え、パミール高原タクラマカン砂漠南辺、ツァイダム、青海からオルドスを横断、張家口を経て北京に到着(1893年−97年)。
タリム盆地および中部チベット湖沼地方の北部を探検(1899年−1902年)、その間ロプノール付近に古代都市楼蘭の遺跡を発見(1901年)。多くの文書・遺物を取得してカラコルム山脈を越え、レー・カシュミールに出て、再びカラコルム峠を越えてカシュガルに至り、フェルガナのアンディジャンに到着、ロシア経由で帰国した。
1908年に帰国。1927年に西北科学考査団を組織し、スウェーデン・ドイツ・中国の学者の協力による大規模な探検を行い、東は東蒙古の熱河地帯から西は新疆省(現在の新疆ウイグル自治区)を越えてペルシアにおよび、南はチベット北部から北は天山に至る地域について地理、考古、生物、民族、人類学など広範囲な部門について研究を行った。
1935年に帰国するが、途上立ち寄ったドイツでアドルフ・ヒトラーの歓待(ヘディンはナチス党員ではなかったが、チベットに興味を持ち、自分の偉業を正当に評価してくれるヒトラーとは親密だった)を受け、その後数回にわたってナチス幹部と接触を持つ(金子民雄「秘められたベルリン使節」に詳しい)。なおヘディンは、16分の1でユダヤ人の血筋(ヘディンを貶める巧妙な告発であったが、自身はこれを誇りであると偏見誹謗を一蹴した)を引いていたが、新聞紙上で台頭期のナチスを礼賛したこともあった。
これらの行動が原因で、第二次世界大戦終結後にスウェーデン国内ではヘディンを「ナチス・ドイツに協力した」として大きく批判され、その存在・業績はスウェーデンの考古学界からは抹消された。
1952年、ヘディンはストックホルムで没した。没する直前まで、探検に関する著述活動を行っていた。
楼蘭 ウィキペディアWikipedia)より
楼蘭(ろうらん Loulan 推定されている現地名はクロライナ Kroraina)は現在の中国領新疆ウイグル自治区に存在した都市、及びその都市を中心とした国家。西域南道沿い、孔雀河下流のロプノール(Lop-Nur)湖の西岸に位置し、シルクロード交易で栄えた。紀元前77年に漢の影響下で国名を改称したが、楼蘭の名はその後も長く用いられ続けた。
楼蘭の位置】
楼蘭時代の遺跡が探検家スヴェン・ヘディンやオーレル・スタインらの活動によって発見され、発掘調査が行われるようになった後、同地から発見された漢文文書の分析によってスタインがL.Aと名づけた都市遺跡が楼蘭の王城であるという説が唱えられた。この説は現在でも有力説の一つであり、また現在、「楼蘭」、「楼蘭遺跡」、「楼蘭故城」などと呼ばれる場合にはほぼこのL.A遺跡を指す。しかし、L.A遺跡は3世紀頃に形成された都市であり、少なくとも前漢代の記録に登場する「楼蘭」とは同一でないともいわれている。楼蘭王国の王都としての楼蘭の位置は未だ諸説入り乱れる分野である。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ヘディン (1865-1952) 87歳で死亡。(一部抜粋しています)
「ヘディンは近代における個人の探検家としては最大の人物である。こういう巨人は今後現れることはないだろう」(梅棹忠夫
1900年、中国新疆省ロブ砂漠のロブノール湖が「さまよえる湖」であることを発見し、また埋もれた古代の町「楼蘭」の遺跡を発見したスウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンは、1946年、81歳のとき知人に「私はまだ、12冊分書くだけのテーマを持っています」と書いたが、その翌年ごろから白内障にかかった。
しかし、ストックホルムのメラール湖を見下ろすアパートの7階のヘディンの部屋は、毎夜明け方まで灯がつけられ、棚から床から本のあふれる書斎で、彼は拡大鏡(ルーペ)を使って著述をつづけた。
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1952年9月20日、彼は最後の著作『アジアにおける私の犬たち』の序文を書いた。11月下旬、出来上がったその本を見て、26日午前9時40分、老衰したヘディンは眠るように息をひきとった。

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B>Sven Anders Hedin Google 検索
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