じじぃの「人の死にざま_840_曹操」

三国志 曹操 動画 YouTube
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三國 曹操 赤壁 動画 YouTube
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三国志地図 画像
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曹操 ウィキペディアWikipedia)より
曹操(そうそう、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日)は、中国後漢末の武将、政治家。詩人、兵法家としても業績を残した。
後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。
文人・詩人として】
曹操は「槊を横たえて詩を賦す」と後世に言われたように、政治・軍事に多忙な中、多くの文人たちを配下に集めて文学を奨励すると同時に、自身もすぐれた詩人であった。彼は建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕曹植と合わせて「三曹」と称される。曹操は軍隊を率いること30数年間、昼は軍略を考え、夜は経書の勉強に励み、高所に登れば詩を作り、詩ができると管弦にのせ音楽の歌詞にしたという。その記述の通り、現存する曹操の詩は、いずれも楽府という音楽の伴奏を伴った歌詞であり、代表的な作品として『文選』27巻 樂府上 樂府二首に収録された下に記す「短歌行」が有名である。

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井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
本物ではなかった3人の英雄 曹操劉備孫権 (一部抜粋しています)
『英雄ここにあり』という三国志をもとにした小説があるぐらい、三国時代というのは英雄の宝庫のように思われている。だが、実は私はこれに異論を持っている。なぜなら、魏の曹操も、蜀の劉備も、呉の孫権も、誰も中国を統一することができなかったからである。確かにこの時代は、これら3人の他にも、呂布や薫卓など英雄と呼ばれる人が多数輩出されるが、大勢いるということは、逆の見方をすれば、突出した英雄がいなかったということなのだ。もし本当の英雄がいたのなら、三国が並び立つこともなく、その一人の英雄が統一していたはずなのである。つまり、曹操劉備孫権も、みなそれぞれに欠点を持っていたということである。
曹操劉備孫権が活躍したのは、2世紀の末から3世紀にかけて、前漢後漢合わせて400年近くも中国を治めてきた漢王朝が滅び、3人はその覇権を巡って戦ったのである。
その中で劉備は、漢王室の血を引く自分が漢王朝を復興させるという大義名分を掲げて戦った。
劉備の主張を信じるなら、彼は前漢の第6代皇帝・景帝の子、中山靖王劉勝の後裔ということになる。彼の「劉」という姓は、確かに漢王室の姓である。中国では父親の一族、つまり同姓のものでなければ養子は認められないので、彼が漢王室の血に繋がる者であることは間違いない。だが、劉という姓を持つ者など何千人もいる。だから彼も、そんな何千人もいる末裔の中の一人に過ぎなかったと考えるのが現実だろう。しかし、その中で頭角を現すだけの才を彼が持っていたことも確かである。彼は、関羽張飛といった武勇に優れた者と兄弟の契りを交わし、諸葛孔明というブレーンも得ているからだ。そんな劉備の最大の弱点は、常に小数派だったことである。劉備は、数を知恵でカバーし、なんとか三国鼎立(ていりつ)へ持ち込むが、最終的に彼が得たのは、蜀(現在の四川省を中心とする地域)という中国の中でも最も実りの少ない土地であった。
もう一人の雄、孫権が得たのは「江南の地」と呼ばれる南に位置する豊かな土地である。彼は水軍も有し、天下を臨むには劉備より良い位置に着けていたといえる。だがこの江南の地は、商業や交易は盛んなのだが、穀倉地帯はそれほど多くない。孫権が天下を取れなかったのは、そうした弱点が影響していた。
そして、曹操の場合は、孫権とまったく逆の弱みを持っていた。つまり、彼の土地は豊かな穀倉地帯を持っているが、それをお金に換える交易や商業が弱かったのである。
いうなれば、三国というのはバランスが良すぎるのである。どこか1つが突出するためには、2対1の戦いを勝ち残らなければならない。だが、このようにそれぞれが弱点を持ち、勢力が拮抗している場合、動くのは難しい。そのため、いわゆる「三竦(さんすく)み」の状態になってしまうのだ。
三国志の中で最大の戦いといわれているものに『赤壁の戦い』がある。これは勢力が着実に伸ばし華北を統一した曹操が、中国全土の覇権を目指して孫権劉備連合軍と雌雄を決した戦いである。
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劉備の軍師である諸葛孔明の戦略に曹操が破れた戦いだといわれているのだが、これに負けたことによって、どうも曹操は、自分の代で天下を取ることを諦めたような節がみられるのだ。それはその後間もなく息子の曹丕を自分の後継者に指名していることからも想像がつく。赤壁で敗れたとき曹操は53歳である。おそらく彼は、自分の代で天下を統一することは諦め、次の代に夢を託したのだろう。
その後も三国の戦いは続くが、どこか一国が上に行こうとすると、他の二国が手を結び足を引っ張るという形で、結局、この3人のうちの伊達も天下を取ることはできずに終わるのである。そういう意味でいうと、曹操というのは、自分の器を正しく把握することのできた人だといえるかもしれない。

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