じじぃの「人の死にざま_823_メンデレーエフ」

ドミトリ・メンデレーエフ - あのひと検索 SPYSEE
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Periodic Table History Project 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9womoDnN4vw&feature=related
元素周期表 ランタノイドアクチノイドの覚え方 とにかく歌おう 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=gMNozYhSyng&feature=fvwrel
【祝・新元素発見】理研が113番元素の合成に成功!  2012年9月27日 文部科学省
理研・仁科加速器研究センターの森田浩介准主任研究員らのグループが長年取り組んできた新元素合成の実験で、新たな成果が生まれました!
そして、今回の成果により新元素の命名権が国際的に認められれば、元素周期表に初めて日本が命名する元素が載ることになります。日本そしてアジア初の元素への命名権獲得に期待しましょう!
http://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/ryoushi/detail/1326302.htm
ドミトリ・メンデレーエフ ウィキペディアWikipedia)』より 
ドミトリ・イヴァノヴィチ・メンデレーエフ1834年1月27日 -1907年1月20日)はロシアの化学者であり、元素の周期律表を作成し、それまでに発見されていた元素を並べ周期的に性質を同じくした元素が現れることを確認し、発見されていなかった数々の元素の存在を予言したことで知られている。
また、「石油の無機起源説」の提唱者としても近年再評価されている。
【経歴】
メンデレーエフは西シベリアのトボリスクに14人の子供の末っ子として生まれた。14歳、当時中学校の校長をしていた父を亡くした。1849年に貧しい家族とともにサンクトペテルブルクに移り住み、1850年には大学へと進学した。卒業後の1855年結核と診断され黒海近くの学校で化学の教師として赴任した。しかし翌1856年に病気から快復すると再びサンクトペテルブルクへと戻った。
1859年から1861年の間気体の密度についてパリで研究を行う。また、ドイツのハイデルベルクでグスタフ・キルヒホッフと共に分光器についての研究を行った。1863年再びロシアに戻り、サンクトペテルブルクの化学技術大学で化学の教授となった。
1865年にジョン・ニューランズがオクターブの法則を発表した。メンデレーエフも同様の考えを持っており、1869年の3月6日にロシア化学学会で The Dependence Between the Properties of the Atomic Weights of the Elements と題した発表を行った。そこで、
1.元素は原子量の順に並べると明らかにその性質ごとの周期性を表す。
2.科学的特性の類似する元素はほぼ同じ原子量であるか(例:白金、イリジウムオスミウム)、原子量が規則的に増加するか(例:カリウムルビジウムセシウム)である。
3.元素グループ内での原子量順に並べた元素の配列はいわゆる原子価だけでなく、ある範囲まで、独特の化学的特性と一致する。
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8.元素の特徴的な特性はその原子量から予言できる。
ということを指摘した。
メンデレーエフ周期表を発表した数ヵ月後、ドイツのロータル・マイヤーが事実上同一の表を発表した。このため、周期表メンデレーエフとマイヤーの共同成果であると考える者もいるが、未発見の元素の予測の質がよかったため、メンデレーエフ単独の功績とみなされている。
メンデレーエフの研究は、1906年ノーベル化学賞にノミネートされるも、たった一票の差でアンリ・モアッサンに敗れる。翌年に死去。

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周期表でスラスラわかる! 「元素」のスゴい話 アブない話』 小谷太郎/著 青春文庫 2011年発行
周期表には美しいヒミツがある (一部抜粋しています)
実は原子量と原子価を使って元素を並べるところまでは、他にも思いついた研究者がいました。メンデレーエフ周期表が優れていた点、彼の名声を不動のものにせしめたミソは、その表が空欄をふくむ不完全なものだったことです。
当時知られていた元素を原子量の順に並べていくと、周期的なはずの原子価がスキップするところがあります。カルシウムCaのところで原子価は2から4に、亜鉛Znのところでやはり2から5に変ります。
メンデレーエフは、このスキップされたところには未発見の元素が入るのだと正しく解釈しました。彼の周期表は将来発見される元素が入るための空欄が含まれていたのです。
さらに大胆なことに、メンデレーエフはこの未発見の元素の性質を予言しました。未知の元素エカホウ素(仮名)は原子量44で原子価は3、つまり三酸化二エカホウ素のような酸化物を作るであろう。エカアルミニウム(仮名)は原子量68で、単体の密度は5.9x103kg/m3、融点は低いだろう、エカケイ素(仮名)は原子量72、密度5.5x103kg/m3、単体の融点は高いが塩化物は液体であろう、というぐあいです。
発表当初、この予言はあまり信用されなかったようです。ロシアにありがちな神秘主義(トンデモ)と誤解されたのでしょうか。実はメンデレーエフ自身も生きているうちに自分の予言が確かめられるとは思っていなかったふしがあります。
ところが予言から4年後の1875年、エカアルミニウムの性質をそなえた元素が予言どおりみつかり、ガリウムと名付けられました。原子量は69.7で、まあだいたい予想の範囲内です。
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ここにおいて、ついに人類は元素を支配する法則を手に入れたことになります。元素は周期表上にある位置を占め、その位置によって元素の性質は決定されるのです。メンデレーエフの名は世界にとどろきました。
メンデレーエフはシベリアのトボリスクに14人兄弟とも17人兄弟ともいわれる大家族の末っ子として生まれました。父は土地の高校長でしたがメンデレーエフが幼いころに視力を失い、以後母がガラス工場をたて、大変な努力で一家を支えました。メンデレーエフが高校を終えた14歳の時に父が死に、ガラス工場が焼失しました。ほとんどの兄弟は独立していたので、メンデレーエフの才能に気づいていた母はその機会にシベリアを離れ、メンデレーエフをペテルブルク大学に入れました。どうもモスクワ大学の入学には失敗したようです。大学をクラス一番で卒業したメンデレーエフはフランスとドイツに留学したものの、ドイツでトラブルを起こして帰国し、ペテルブルク大学で講師になりました。
メンデレーエフは気性が荒く、自由主義者で、平民を愛したと伝えられます。学生に対するロシア政府の圧迫を非難して何度も警告を受け、1890年には奨学金の増額を要求する学生運動を支持したために大学を罷免されました。しかしロシア政府はこの世界的な化学者を外国にも派遣して自慢せずにはいられませんでした。1906年ノーベル化学賞を一票の差で惜しくも逃し、次の年に世を去りました。

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