じじぃの「世界遺産未登録・楼蘭古城・さまよえる湖ロプノール!タクラマカン砂漠探検記」

シルクロード1 (流砂の果て) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=4O6qv-2BhQA
シルクロード - 喜多郎 - Silkroad - KItaro - 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ETa6a58tms0&feature=related
ウイグル】中国の核実験 潜入調査その1【シルクロード 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=37sFp3pcPHo
楼蘭王国 画像
http://www.arachina.com/attrations/silkroad/yizhi/ll.gif
砂の海―楼蘭タクラマカン砂漠 画像
http://ec2.images-amazon.com/images/I/61ZGKZFV3VL._SL500_AA300_.jpg
楼蘭 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&aq=f&oq=%E6%A5%BC%E8%98%AD++%E7%94%BB%E5%83%8F&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&gs_upl=0l0l3l33180lllllllllll0&oi=image_result_group&sa=X&q=%E6%A5%BC%E8%98%AD%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbm=isch
タクラマカン砂漠、ロプノールを見る
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoss/W-map/lopnur.html
中国、国土の5割近くが荒漠化・砂漠化 年々悪化 11/01/07 大紀元
http://www.epochtimes.jp/jp/2011/01/html/d99229.html
楼蘭 ウィキペディアWikipedia)より
楼蘭(ろうらん Loulan 推定されている現地名はクロライナ Kroraina)は現在の中国領新疆ウイグル自治区に存在した都市、及びその都市を中心とした国家。西域南道沿い、孔雀河下流のロプノール(Lop-Nur)湖の西岸に位置し、シルクロード交易で栄えた。紀元前77年に漢の影響下で国名を改称したが、楼蘭の名はその後も長く用いられ続けた。
【番組 「シルクロード」の取材と中国の調査】
楼蘭に大規模な調査隊が訪れるのは1979年の事である。これは日本のNHKと中国の中央電視台による共同制作番組『シルクロード』の取材によるもので、この時中央電視台の要請によって中国人学者による調査隊が組まれたのである。この時新たに女性のミイラが発見されている。翌年には更に大規模な調査が行われ大きな成果を上げた。この調査では初めて楼蘭の水源も明らかとなっている。その後、大規模な調査が繰り返し楼蘭で行われており、数多くの知見を齎している。
1986年以降は新疆文化庁によって恒常的に調査が行われており、それに伴って膨大な量の遺物が収集されている。1988年の日中共同調査では早稲田大学教授の長澤和俊やジャーナリストの轡田隆史も楼蘭故城の調査にあたり、外国人としては54年ぶりの楼蘭調査となった。しかし基本的には現在の楼蘭調査は外国人には滅多に許可されないため、中国人学者の手によって行われている。
ロプノール ウィキペディアWikipedia)より
ロプノール(羅布泊:Lop Nur、ロプ湖)は、中華人民共和国新疆維吾爾自治区東トルキスタン地域)の南東部にかつて存在した塩湖である。
この湖にはタリム川(塔里木河)が流れ込むが、湖から流れ出る川はなく、その湖水は強い陽射しで蒸発するか地中に消えてしまう。
かつて、ロプノールは水深が浅く、またタリム川の流路が砂丘の移動などによって蛇行するため、低地を求めて湖の位置が変化すると考えられたため「さまよえる湖」と呼ばれてきた。しかし現在は、上流の天山山脈の降雪降雨量によって湖に流れこむ流量が変わるために消滅を繰り返しているにすぎず、湖自体の移動などは起きていないことが明らかになっている。
【歴史】
ロプノールは、約200万年以上前に形成されたと考えられている。この地は、中国で古来から西域と呼ばれていた地域で、シルクロードの途中に位置し、漢の時代にはロプノール西岸に都市国家楼蘭が栄えていた。
3世紀頃からロプノール一帯の乾燥化が始まったと見られ、4世紀頃に楼蘭は急速に衰退した。このためシルクロードも、タクラマカン砂漠の南側を通る西域南道の往来が困難になり、唐代までには敦煌から北に上がって天山山脈の南側を通る西域北道へとルートの中心が移った。以降、楼蘭とロプノールは長く伝説とされていた。
13世紀のヴェネツィア商人で中国を旅行したマルコ・ポーロは、この湖の近くを通過した。
20世紀初頭、探検家ニコライ・ミハイロヴィッチ・プルジェヴァルスキーとスウェン・ヘディンは、周囲一帯を探検し、1900年に楼蘭遺跡を発見した。またこの遺跡の南側に、カラ・ブラン、 カラ・コシュンという2つの湖を発見、ヘディンは河川の流路の移動によりロプノールが南から北へと移るに違いないと予言した。
【現在】
ロプノールの湖心を訪れるツアーなども組まれており、湖の中心には多くの旅行者や探検家によって湖心到達を記念する碑が建てられている。
2010年11月の成都商業報によると、中国科学院は今後ロプノール地区の砂漠化対策計画「新ローラン計画」の一環として、ロプノールに人造湖を建設することを計画している。

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『砂の海 楼蘭タクラマカン砂漠探検記』 椎名誠/著 新潮社 1998年発行
砂の古城 (一部抜粋しています)
 自己主張する影
 逃げ灯
 闇に浮かぶ楼蘭古城
砂漠の太陽が頂点に達し、自分の陰が足元に小さく頼りなげにかたまって存在している。影というのは、普段あまり意識しないものだが、砂漠を歩いていると妙に気になるものだ。理由がだんだんわかってきた。
楼蘭へ30キロ圏に入ってきて、あたりの砂の色はきわだって白くなってきた。その真白な砂の地表に、むきだしの太陽が照りつける。要するに影が濃いのである。
そんなふうに影が自己主張しはじめると、逆に自分の影が見えなくなってしまうのがどうも心細い。
北方のヤルダンがしだいに巨大化してきた。ところどころに枯れたタマリスクの根が見える。隊列はさらに個人と個人の距離を引きはなし細長くなっていた。おれはきっちりトップ集団の中にいた。中国隊員と日本人隊員7、8人ぐらいだ。長澤和俊教授もトップ集団にいる。60歳を超えている筈だが、積年の辺境地探険の経験と強靭な足腰がモノを言っているのだろう。朝日新聞の内山記者もいる。彼は背中に私物のほか10キロの無線装置とアンテナを背負っている。登山やフィールドワークの経験が豊富な人らしい。
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長澤教授の著書『楼蘭古城にたたずんで』のこの砂の行進のあたりを読むと、もしあのとき砂嵐がきたら犠牲者がでたかもしれない、と書いている。
すでに「灯」が見えてから2時間以上歩いている。目的地の灯はずっと見えている訳ではなく、深いヤルダンの下に降りるとまったく見えなくなってしまう。次のヤルダンによじ登ったところで再び灯をみるのが嬉しい。
さらに1時間、同じような状況の中をじわじわ進んでいった。しかし灯には中々近づけない。逃げ水というのがあるが、この灯は進んでいくとどんどん闇の奥に遠のいていくような気もする。”砂漠の逃げ灯”などというものが我々を誘っているのだろうか。
「もしかするとこれは幻の灯かもしれない……」などと不吉なことを考えはじめた頃、漸くいくらか灯が大きくなってきた。
そこに至って、なぜなかなか灯に近づかなかったのか、その理由がわかった。
3時間ほど前に棒の先にくくりつけたヘッダランプの光なのだろうと思っていたそれは、実は巨大なヤルダンの上につくった巨大なかかり火なのであった。最接近してわかったのだが、そのかがり火の大きさは、家を1軒燃やしているくらいのスケールだった。そのでっかい火災スケールの灯がヘッダランプくらいにしか見えないとんでもなく遠いところからずっと歩いてきたのだ。いつまでたっても灯に近づけない訳である。
そこからすこし地形が変わった。ヤルダン地形が緩やかになり、砂がいくらか堅くなった。かがり火をすぎてからさらに30分程歩いたところで、ヘッダランプの光束(砂塵で光の束のように見える)の中にいきなりストゥーパ(仏塔)が浮かび上がった。
ヘディンやスタインの探検記の中で何度も見たあの楼蘭王国を象徴するような、風の中に屹立(きつりつ)する仏塔を、その時いきなり見てしまった。ヘッダランプの光の中にそれは思ったよりずっと荒々しく、そして静かに厳粛に巨大だった。
背後から別の人のヘッダランプが接近してくる。長澤教授と楊隊長であった。気がつくと、おれは作戦どおりトップで楼蘭古城に入っていたのだ。やったぞ。1934年のヘディン隊以降54年ぶりに外国人隊、しかも日本隊が入城したのだ。
3人のヘッダランプが交叉し、ストゥーパが闇のむこうから浮かびあがっているように見える。ヘディンが初めて88年前に見たのと同じものをいま自分のこの眼で確かに見つめているのだ、と思った。
「ついにやってきたぞ。ついにおれはやってきたぞ!」
ふいに涙が出てきた。埃と涙で視界が白く滲んでかすむ。思わずへたりこみそうになった。けれどもそこはまだ最終到着地点ではない。さらに多くに第2のかがり火が見える。そこが楼蘭のベースキャンプのようであった。
そこまでさらに30分かかり、結局午後10時半の到着だった。先発隊によってもうテントは張られていた。そのかたわらにザックを投げ出した。足も投げ出し、両手を背中のうしろについて、空を眺めた。はじめて見る楼蘭古城の空である。満天の星だった。
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ひとことでいうと、思いがけないほど悲しい風景であった。
ストゥーパの上部は崩壊し、そこからえぐられた内臓をさらけだすかのように、内部の日干しレンガの堆積が下からも見える。埋もれた歴史の白骨美人のように、タマリスクらしいいくつもの白い木の枝が、レンガのむこうからとび出している。ヘディン隊が内部をあばくために、綱をつけて引きだしたものであるという。

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どうでもいい、じじぃの日記。
先日、図書館のなかで本巡りをしていたら、椎名誠著『砂の海 楼蘭タクラマカン砂漠探検記』という本があった。
楼蘭王国は紀元前から5世紀頃までシルクロードのオアシス交易都市として栄えた古代都市で、20世紀の初めにスウェーデンの探検家スウェン・ヘディンと、イギリスのスタインの探検家によって発見された。
現在は中国領新疆ウイグル自治区に属している。古代都市 楼蘭王国の最盛期の人口は2万人だったといわれている。幻の湖と言われているロプノールは、2000年前には楼蘭のそばにあり、その水は大都市楼蘭を養う命の水であった。ロプノールは4世紀頃から移動し始め、そのほとりに栄えていた楼蘭は衰退してしまった。
この本は、著者が1988年の日中共同調査隊の一員として楼蘭とロプノールを調査したときの紀行小説である。
本の中に、写真が載せられている。
かっては満々と水をたたえていたと思われるロプノールの湖底は固い砂上に変っている。かっては栄華を誇って建てられた仏塔はアメリカ・アリゾナグランド・キャニオンに点在する大きな岩肌のようである。
かってサハラ砂漠は、大型草食動物が群れをなしていた草原地帯だった。楼蘭とその周辺もかっては緑豊かな草原地帯であったのだろう。
中国の砂漠化が進み、国土の約45%が荒れ地・砂漠化しているのだそうだ。
「ひとことでいうと、思いがけないほど悲しい風景であった」
今から、1000年後に見た地球の姿を何か暗示しているかのようである。