じじぃの「人の死にざま_799_アッチラ大王」

アッチラ大王 - あのひと検索 SPYSEE
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Attila (The Movie) - Part 1 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_yAmtD3IWiw
Attila, King of the Huns


Attila
http://www.tamabi.ac.jp/idd/shiro/muqarnas/eurasia/hun/attila.html
アッティラ ウィキペディアWikipedia)より
アッティラ、またはアッチラ(Attila、406年? - 453年)は、フン族の王。原語ではアキラ、ドイツ語でエツェル(Etzel)とも言う。現在のロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の大王を自称した。またローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは「神の災い」や「神の鞭」と恐れられた。
出自についてはフン族全体と同じく詳しくは分からないが、名前や風貌の伝承などからテュルク・モンゴル系民族に属する所謂モンゴロイド黄色人種)だったのではないかと見られている。
434年に伯父である王ルーアの死後、兄ブレダとともにフン族の王となる。445年頃に共同統治者のブレダが死ぬと単独の王となった。アッティラはブルグンド族などのゲルマン系諸族を征服し、パンノニアに本拠を置いて東ローマ帝国への侵入を繰り返して、短期間でライン川ドナウ川カスピ海に渡る大帝国を築き上げた。451年、西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実にガリアへ侵入したがカタラウヌムで、ローマの将軍アエティウス指揮下の西ローマ=西ゴート連合軍と戦い敗れて撤退した。翌452年にイタリア半島へ侵攻して、ミラノ、アクイレイアなどの諸都市を陥れたが、教皇レオ1世の説得によって撤退した。
アッティラの治世下で帝国は最盛期を迎えるが、453年自らの婚礼を祝う酒宴の席で急死する。死後、アッティラの息子たちの間で内紛が起き、フン帝国は瓦解した。

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井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
恐怖の魔王 アッチラ大王 (一部抜粋しています)
「民族大移動」という言葉がある。本来はゲルマン民族の大移動を意味する。問題はなぜ「大移動」したかだが、それはフン族に圧迫されたからで、そのフン族の帝国を築いた男こそアッチラ大王なのである。
アッチラ大の来歴はよくわからない。それどころか彼の出目であるフン族自体が謎の民族なのである。
確実なことは、騎馬民族であり恐ろしく強かったことだ。なにしろヨーロッパ最強ともいわれるゲルマン民族を、それまでの居住地である黒海沿岸から追い払ってしまったほどである。このためゲルマン人は4世紀後半から、それまでローマとの境界であったライン川ドナウ川を越えてヨーロッパの領域に深く侵入する。現在のイタリア・ドイツ・フランス、あるいはスウェーデンノルウェー、またイングランドアイルランドも、この6世紀後半まで200年にわたる大移動の結果、ラテン(ローマ)文化とゲルマン文化が融合した中で生まれたものだ。
ではフン族はどこから来たのか?
中央アジアの草原地帯と考えられる。ここで想起されるのは、ほぼ同時代に東洋世界の代表である中国は、匈奴という中央アジア出身の騎馬民族の侵攻に散々悩まされたことだ。
ひょっとしたら、匈奴フン族は同じもので、それが西と東へ分かれたのではないか? 実はこれは学説としても有力なのだが、決め手はない。そのうちに考古学や人類学によって決着がつくのかもしれないが、私は、この時期に中央アジアに何らかの人口爆発があり、それが世界史に甚大なる影響を及ぼしたのだと見ている。
侵入される側から見れば、東(中国)より西(ヨーロッパ)の方がずっと深刻であった。中国は秦の時代から強力な統一政権があり、万里の長城という防衛施設もあった。
ところが、ローマ帝国は早くも5世紀末つまりフン族の侵入の少し前に、西と東に分裂してしまった。しかも、フン族に圧迫されてヨーロッパの領域に侵入してきたゲルマン民族が、東、西ゴート王国などを建国したため、「西」の力は相対的に弱体化した。
もう1つ重要なことは、西に向かったフン族の中に、民族を大同団結させる強力なリーダーがいたということだ。
それがアッチラ大王である。
東ヨーロッパに侵入したフン族ハンガリーあたりを本拠地とし、各部族ごとに、東、西ローマ帝国の領域に侵入を繰り返していたが、アッチラが出現するに及んで、民族は1つとなり黒海沿岸からライン川まで広がるフン帝国が生まれた。
5世紀中頃のことである。
アッチラはこの強大な国力を背景に、南ヨーロッパ(現在のフランス、イタリア)に盛んに侵入した。
一方、ヨーロッパ側は、ローマ・ゲルマン連合軍でこれに対抗した。ローマ人は、武力に長じたゲルマン人と同盟を結び、あるいは雇兵(ようへい)部隊として雇うことによって、フン族に対抗したのだ。
アッチラの帝国は、その最盛期にはハンガリーを中心に東はカフカス山脈、西はライン川、北はデンマーク、南はドン川まで広がった。
そして447年に、アッチラは大軍を率いてビザンチン(東ローマ)帝国を攻めた。70あまりの城を一気に落とし、首都コンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)までせまったアッチラは、多額の賠償金を受け取ることを条件に、兵を引き上げた。そして、今度は西ローマ帝国の領域に出兵した。
両者の最大の決戦がカタラウヌスの戦い(451年)である。
アッチラ率いるフン軍と、西ローマ帝国の将軍アエティウスを大将とする西ヨーロッパ連合軍が、現在のフランス北東部で激突したのだ。
この戦い、双方50万人以上の兵を繰り出し、戦死者は16万以上にのぼったが、かろうじて連合軍側の勝利に終った。
もし、この戦いに連合軍が負けていたら、その後の歴史は一体どうなっていたか。
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フン族は白人ではなく、アジア系であると考えられているから、これは黄禍論(白人を黄色人種が圧迫する恐れがあるという、一種の人種差別論)にも影響を及ぼしていると見られる。
西ローマ帝国はどうして滅んだか覚えておいでだろうか? ゲルマン人雇兵隊長オドアケルが国を奪ったのである。そもそもフン族の侵入がなければゲルマン兵がローマの中枢にいることがなかったのだから、そういう意味でもアッチラは「恐怖」なのである。

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