じじぃの「人の死にざま_793_芝田・清」

芝田清次さん講演会 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=etAMA_cbIMg
第14回関西スイーツ講習会in叶匠寿庵「寿長生の郷」 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9pBU5pbUOwk
叶匠寿庵の創業者、芝田清次氏の壮絶な生き方 れいけいのブログ
http://ameblo.jp/prg012/entry-10392531867.html
浄土宗新聞 和菓子づくりのこだわり
http://press.jodo.or.jp/newspaper/1997/199712_370_3.pdf
『新忘れられた日本人』 佐野眞一/著 毎日新聞社 2009年発行
和菓子のソニー・芝田清次 (一部抜粋しています)
今回は時代錯誤と思われるほどの日本的家族経営で顧客の信用を集めてきたある和菓子匠を紹介してみたい。あまりに美談じみたエピソードの連続に眉にツバをつけたり、抹香くさすぎると辟易する向きもあろうが、同じ和を売り物にしながら、相次ぐ不祥事ですっかり信用を失墜し、ついに廃業に追い込まれた高級料亭「船場吉兆」の女将(おかみ)に、爪の垢でも煎じて飲ませたい佳話なので、一服の清涼剤だと思ってお読みいただきたい。
この和菓子メーカーの名前は叶匠寿庵(かのうしようじゅあん)といい、本社は滋賀県大津市にある。その古風な屋号から100年の伝統を誇る老舗と思われがちだが、戦前に湯木貞一によって創業された「吉兆」とは違い、創業は戦後の昭和33(1958)年と比較的新しい。しかも創業者の芝田清次は、和菓子とは縁もゆかりもない元警察官という変わり種である。
創業者の芝田は平成4(1992)年に73歳で亡くなったが、私が彼に会ったのは芝田がちょうど還暦を迎えたときだった。
この当時、叶匠寿庵は”和菓子のソニー”といわれ、和菓子ファンの間では知る人ぞ知る存在だった。その頃、同社の店舗は大津市内の2店舗のほかは、京都の阪急、大阪・梅田の阪急、東京・池袋の西武、日本橋高島屋に出展しているにすぎなかった。だが年商は37億円に達し、東京のデパートでは客足が途切れることがなかった。
幻竿、同社は芝田の長男の清邦が社長を継ぎ、直営店8、全国のデパートに出展しているテナント店舗数は54を数える。
叶匠寿庵は、なぜ創業から20年たらずで、”和菓子のソニー”といわれる急成長を遂げたのか。わずか一代で記事きあげたにもかかわらず、なぜ100年の老舗以上の伝統を感じさせるのか、デパートの同じコーナーにある和菓子売り場は閑散としているのに、なぜ叶匠寿庵だけは黒山の人だかりなのか……。
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名古屋からひとりの客が大津までやってきた。店は閉まっていたが、なかから19歳の女店員が出てきて応対した。この女店員の父親はアル中で、母親も病床に伏し、5人の幼い弟妹をひとりで稼いで食べさせている。
名古屋から駆けつけた客が言うには、いま自分の母親が死にかけている。死ぬ前に何か食べたいものはないかと聞くと、叶匠寿庵の菓子が食べたいと言う。病身の母親を持つ女店員には他人事とは思えなかったのだろう、菓子折りを包みながら、こう申し添えた。
「うちのお菓子をそこまで思ってくださる方からお金をいただくわけにはまいりません」
女店員は菓子折を渡し、自分の給料からその代金をレジに入れ、客の住所と電話番号を尋ねた。
翌朝、19歳の女店員は名古屋に電話を入れたが、客が着いた時には母親の体はすでに冷たくなっていたという。女店員は丁寧にお悔やみの言葉を述べ、さりげなく葬儀の日取りを聞いた。その当日、名古屋まで駆けつけた女店員は、「せめてもの供養でございます」と菓子折を祭壇に供えて帰ったという。
話があまりベタすぎて全身がむずがゆくなる向きもあるだろう。だが、こうした美談が口コミの形で広まり、叶匠寿庵の人気を知らず知らず築いていった。事実、創業から10年になるかならない昭和40年代に、まだ1軒しかなかった大津の本店の前には、早くも外車の列が途切れることがなかった。それは松下幸之助夫人であり、裏千家であり、正田家だった。
芝田が叶匠寿庵の暖簾(のれん)を出すのは39歳のときである。それまでの芝田の半生は波瀾に富んでいる。
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芝田は自宅を改造した菓子工場を退職金をはたいてつくると、雪深い滋賀の村々に暮らす若者を訪ねて、「日本一の菓子づくりをやろう」と口説いて回った。芝田が訪ねたのは、いまも炭焼きを営む家が珍しくない貧しい村ばかりである。その貧しさゆえ、高校に進む者は少なくて、それだけに都会の若者にはない純真さと秘めた活力をもった若者が多かった。
同社の従業員には、知恵遅れの青年や少年院帰りの若者が少なくない。芝田の”人間教育”を聞きつけて、就職を頼み込む保護者が後を絶たないためである。あるとき、少年院を出てきたばかりの若者が父親と教員に連れられてやってきた。しょげ返った大人に対し、当の若者の目は明るく澄んでおり、芝田はその場で若者を採用した。
それから暫(しばら)くして、若者の父親が訪ねてきた。給料をそっくり渡すのが心配だ。小遣いはどうしているのか、また悪いことをしているに違いない。そう言う父親に、芝田は言った。
「どうして子どもを信用してやらないんですか。それなら言いましょう。小遣いは私の目の傷病恩給からやっているんです。どうか自分の子どもを信用してやってください」
説教くさい話かも知れない。だが、近代経営とは無縁のこの和菓子屋の商法は、日本人がとっくに忘れてしまった何かを確実にわれわれに訴えかけている。

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