じじぃの「人の死にざま_716_J・モークリー」

ジョン・モークリー - あのひと検索 SPYSEE
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First Computers 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Z2dherJpQbI&feature=related
Remington-Rand Presents the Univac 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=j2fURxbdIZs
ENIAC 画像
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4e/Eniac.jpg/250px-Eniac.jpg
The UNIVAC I 画像
http://www.computerhistory.org/timeline/images/1951_univac_large.jpg
ジョン・モークリー ウィキペディアWikipedia)より
ジョン・モークリー(1907年8月30日 - 1980年1月8日)は、ENIACの主要開発者の一人。ジョンズ・ホプキンス大学卒。物理学博士。
1930年代からコンピューターを構想し、多くの試作機を製作していた。1941年、ペンシルベニア大学でジョン・エッカートと出会う。そして、1943年に二人はアメリカ陸軍とENIAC製作を契約する。当時、ペンシルベニア大学助教授だった彼は、ENIACプロジェクトの最高顧問についた。
1944年頃からは、EDVACの製作にも関わり始める。
しかし、1946年のENIAC完成後、EDVACプロジェクトを離脱し、エッカートと共同でエッカート・モークリー社を設立する。資金難から1950年にレミントンランド社に買収されるものの、そこで世界初の商用コンピューターUNIVAC Iを完成させる。
1967年〜1973年、ジョン・アタナソフらとENIACの特許を巡って裁判になるが敗訴。これは、モークリーが曖昧な証言を繰り返したことと、ENIAC開発以前にABCを見ていたためである。この判決では、「コンピューターの発明」を、ABCのものとした。
ジョン・アタナソフ ウィキペディアWikipedia)より
ジョン・ヴィンセント・アタナソフ(1903年10月4日 - 1995年6月15日)は、ブルガリア人の家系に生まれたアメリカ人物理学者。1973年、ハネウェルとスペリーランドの特許に関する裁判で、アタナソフは電気式自動デジタルコンピューターの発明者とされた。彼が開発したのは特殊用途のアタナソフ&ベリー・コンピューターである。
ブルガリア人移民の息子として電気工学者となり、大学教授、戦時中の政府の研究所長、企業の研究開発担当重役などを歴任した。1970年代以降になって、彼が1930年代から1940年代にかけてアイオワ州立大学で行ったデジタル電子計算機の研究が広く知れ渡るようになった。

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『誰が本当の発明者か』 志村幸雄/著 ブルーバックス 2006年発行
コンピューター 歴史的大発明に水を差す先行発明 (一部抜粋しています)
20世紀は「発明の世紀」ともいわれたが、中でももっとも注目される発明を1つ選ぶとしたら、多くの人はコンピューターをあげるに違いない。いまやコンピューターは単なる計算機という枠組みを越えて、現代社会をコンピュータリゼーション(コンピューター化)の渦中に巻き込み、さらに通信技術と融合してIT(情報技術)革命の原動力になっている。
ところで、20世紀も残りわずかとなった1995年、コンピューターの発明に関わった2人の研究者が相次いでこの世を去った。1人はペンシルベニア大学で「ENIAC」を開発したプレスバー・エッカート。もう1人はアイオア州立大学で「ABCマシン」を開発したジョン・アタナソフである。10日ちょっとの違いで載った新聞の死亡記事には、それぞれ「コンピューターの生みの親」とか「コンピューターの父」などと同じような見出しがついていた。
1つの発明に2人以上の人間が関わりあうのは珍しくはない。しかし同じ技術が別々に発明され、ともに「生みの親」とか「父」とよばれるのは稀有のことである。
一般に世界最初のコンピューターといえば、1946年に発表されたENIACを指し、ジョン・モークリーとエッカートがその発明者として広く知られている。現に、世にある多くの百科事典にはそう書かれているし、コンピューターの入門書にもそう記載されている。
ではアタナソフは、いつから、なぜ、エッカートらと並んでもう1人の「コンピューターの父」とされるようになったのだろうか。
コンピューターの歴史を遡れば、ENIAC以前にもアナログコンピューターとよばれるものがあった。1930年頃に完成した米国マサチューセッツ工科大学(MIT)の「微分解析機」はその代表格で、特に計算型といわれ、数値を者の長さや電波の強さに置き換えて計算する。大小の金属製回転盤やギアをモーターで動かし、積分に相当する作業をやらせて積分方程式の解を求めた。
この積分解析機は、モークリーがいたペンシルベニア大学ムーア校にも設置され、軍事目的の弾道計算などに用いられていた。
しかしこの種の計算機は、計算速度が遅いばかりでなく、と特定用途の計算にしか使えない。これに不満を覚えていたエッカートは、折から台頭し始めた電子技術を応用したコンピューターが「むずかしいかも知れないが、不可能ではないはずだ」と考えた。モークリーもまた、「従来の計算機のように歯車や回転盤といった機械的に動く部品をまったく使わない機械、電子だけが駈け巡る機械が作れるはずだ。それには数字を電子的なパルスで表し、それを数える機械を設計すればよい」と考えた(S・マッカートニー著『エニアック 世界最初のコンピュータ関連秘話』日暮雅通訳)。そこには早くも、明確なデジタルコンピューターの概念が芽生えていた。
モークリーは、父親が物理学者だったせいか数学と物理で際立った才能を持っていた。ジョンズ・ホプキンス大学では学部で工学、大学院で物理学を学んだ後、開発に着手した当時は、ペンシルベニア大学で教鞭をとっていた。
また、エッカートはフィラデルフィアの有力建築業者の息子で、大学入試の数学では全国2位の成績を収めた天才少年だった。両親の意向を受けてペンシルベニア大学経営学部に入学するが、経営学の講義にすっきり退屈した彼は。同じ大学のムーア校に転籍する。モークリーより12歳年下の大学院生だったが、レーダーの研究を通じて高速電子回路の設計に取り込むなど、その才能は誰もが認めるところとなった。
1943年5月、ペンシルベニア大学ムーア校で、新しい計算機の開発が始まった。プロジェクトの中心的役割を演じたのがモークリーとエッカートである。
ムーア校でENIACのプロジェクトがスタートできたのは、開発資金を求めていたモークリーと、高速で弾道計算ができる装置を求めていた陸軍の、双方の思惑がうまく合ったからだ。
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しかし、巨大なENIACが完成する7年前に作られたコンピューターがあった。冒頭にあげたアタナソフとベリーが開発した計算機械「アタナソフーベリー・コンピューター」すなわちABCマシンである。
ジョン・アタナソフの父親は、ブルガリアからの移民で、大学で数学や物理学を学び、母親も数学の教師だった。アタナソフも理科と数学が得意で、2年で高校を卒業すると、理論物理学者への道を進もうとした。ところが入学したフロリダ大学にはその専門課程がなかったので、電気工学を選んだ。以後、アイオア州立大学から数学修士号ウィスコンシン州立大学から理論物理学の博士号を取得するが、これらの学問に取り込む過程で膨大な計算作業に直面し、何とか正確で高速な計算機械を開発しなければならないと考えた。
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このアタナソフの業績が業績がクローズアップされたのは、1967年、コンピューター基本特許をめぐるスペリー・ランド社対ハネウェル社の裁判がきっかけだった。
エッカートとモークリーはENIAC完成の翌47年、コンピューターの商用化を狙ってエッカート・モークリー・コンピューター社を設立している。ところが、スペリーの前身、レミントン・ランド社はエッカートらを説き伏せ、両社を自社の一部門として吸収、50年には世界初の商用機「UNIVAC I」を発表している。こうしてスペリー社がENIAC特許権を手中にしていたため、他のコンピューターメーカーはすべて、スペリーに特許料を支払わなければならなかった。
そのスペリーに真っ向から対抗したのがハネウェル社である。ハネウェル社側が特許権の支払いを拒否すると、スペリーは直ちに裁判所に提訴した。対するハネウェルも同特許の無効を訴えるとともに、独占禁止違反の疑いで逆提訴の手を売った。
ハネウェル側がここまで強硬に出た背景には、裁判のための資料を整えている過程でアタナソフの業績を知ったことが大きい。ハネウェルはアタナソフを証言台に立たせ、ENIACの基本特許の原理や機構がABCのそれと同一であること、そしてそれら情報を得るため、モークリーが何度もアタナソフの許(もと)を訪れている事実を明らかにした。
結果として、ミネアポリス連邦地方裁判所は1973年10月、ENIACの基本特許を無効とする判決を下した。
「彼らは自らの手でデジタルコンピューターを発明したのではない。主要部品はアタナソフのものから引用したに過ぎない」
この判決に対してスペリー社は上訴しなかった。エッカートとモークリーは自分たちの特許権の正当性を主張したが、独禁法の問題も微妙に絡んでいて、スペリーは引き下がった。
ただし彼らが自説を引っ込めたわけではない。エッカートはその後も、「モークリーと私は、機能的に万全なコンピューターをシステムとして完成させた。こんなことをやり遂げた者は他に誰もいない。エジソン白熱電球の発明者ならば、同じ尺度でモークリーと私がコンピューターの発明者なのです」などと、自信たっぷりに語っている。

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