じじぃの「世界遺産・カッパドキアの地下都市!本当はどうなんだろう」

Turquia Cappadocia 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=3-ijwq3mKvY&feature=related
Goreme (Capadocia) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=82E4lJEybUs
TURKEY カッパドキア 〜地下都市カイマクル 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Klh4yKbsK1w
ギョレメの岩窟教会 画像
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:G%C3%B6reme_OpenAir_Museum_Dunkle_Kirche_3_11_2004.jpg
カッパドキア Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%89%E3%82%AD%E3%82%A2&oi=image_result_group&sa=X
カッパドキア フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
カッパドキアとはトルコの首都アンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう。
古代の地理においてCappadociaは、小アジア(現代のトルコ)の広大な内陸地域を指した。ヘロドトスの時代には、「カッパドキア人」がタウルス山脈から「ユークシン(Euxine、すなわち黒海)」までのすべての地域を支配した。この意味でのカッパドキアは、南ではタウルス山脈と、東ではユーフラテス川と、北はポントス地方(黒海沿岸部)と、西はおよそトゥズ湖と境界を接していた。だが、その境界を正確に定義することは不可能である。その国の多少とも詳細な記録を記したただ一人の古代の著述家ストラボンは、その大きさを非常に誇張したが、現在は長さ約250マイル、幅150マイル以下の範囲だったと考えられている。
【歴史】
カッパドキアは、後期青銅器時代にハッティ人として知られ、ハットゥシャに中心を置いたヒッタイト軍の本拠地となった。
ヒッタイト帝国の滅亡の後、紀元前6世紀のクロイソスによる敗北以後のシリア系カッパドキア人の衰退によって、カッパドキアは強固な城に住み、農民を奴隷状態においた、一種の封建貴族の軍政に委ねられた。これは後に、彼らをして、外国の奴隷制度に適した者とした。
カッパドキアはいくつかの地下都市を有しており、主として初期キリスト教徒によって、隠れ場所として使用された。4世紀のカッパドキアの神父たちは、初期キリスト教哲学の多くに対して不可欠な存在であった。
世界遺産
妖精の煙突"と呼ばれる岩の形成物の間に位置するギョレメ は、トルコの歴史地区カッパドキアの町である。それはアナトリア中央部の ネヴシェヒル県にある。ギョレメ国立公園(トルコ語でGoreme Milli Parklar)は、1985年にユネスコ世界遺産リストに加えられた。
この地域への初期の移住は キリスト教が伝播した頃の古代ローマ後期にさかのぼる。史跡の中にはギョレメのオルタハネ、ドゥムス・カディル、ユフス・コックとベジルハネの教会、岩から彫られた家々と縦抗がある。 地下45メートルまでには、広範囲の地下都市が近年発見されている。

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世界遺産ライブラリー [カッパドキア] NHK世界遺産
カッパドキアは、標高1000メートルを超えるアナトリア高原中央部に、100km2近くにわたって岩石地帯が広がる台地です。キノコや煙突のような形の奇岩が林立し、巨岩がそびえる景観はまさに自然の驚異です。この不思議な風景は、柔らかい地層と硬い地層が重なり合い侵食されて生み出されました。
「シリーズ世界遺産100」では、この奇岩の大地に秘められた、キリスト教徒たちの営みを伝えます。3世紀半ば、ローマ帝国の弾圧を逃れたキリスト教の修道士たちが、カッパドキアに移り住みました。彼らは柔らかい岩をくり抜いて住居や教会を作ります。12世紀に作られた洞窟教会には、光がささないため当時のフレスコ画がそのまま残っています。キリスト教徒たちはこの地でペルシャイスラム勢力に包囲され、絶えず脅威にさらされていました。そのため彼らは、敵から一時的に身を隠す場所を地下に求めました。1965年に発見された地下都市は、地下8階、深さ65メートルに及ぶ巨大なものです。地下1階のワイン製造所、地下2階の食堂、居間、寝室、収容人数に合わせて自由に掘り進められました。地下5階をつなぐ通路には、外敵が襲ってきた時通路をふさぐため、1トンもの大きな石を転がして通路を閉じる仕掛けもありました。そして、最下層の空間は十字架の形に掘られた教会になっています。カッパドキアキリスト教徒たちは、地下都市の一番底に、神への祈りの場を設けたのです。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards088.html
『愛蔵版 世界遺産・封印されたミステリー』 平川陽一/著 PHP研究所 2010年発行
数万人も収容できる地下都市はいかにして造られたか? 【遺跡名】ギョレメ国立公園カッパドキア岩窟群 (一部抜粋しています)
古代、巡礼の旗を続ける修業僧の間にこんな言い伝えがあった。トルコに足を踏み入れ、どこまでも東に進んでいくと地獄に至る……。その場所こそカッパドキアにほかならない。
カッパドキアは見渡すかぎり岩原である。視界にはいってくる岩は巨大なドームのようだったり、尖塔のようだったり、足元が大きくえぐられていたり、あるところは空高く隆起していたり、奇岩怪石という言葉どおりである。誰もが、こんな光景は見たこともなかったに違いない。いや、それどころか、「ここが地球上とは信じられない」と、まぶたをこする人も少なくないに違いない。
この奇観は、行けども行けども続く。200平方キロメートルにおよぶ広大な奇岩大地の果てには、幾層もの岩盤を見せる断崖や、さらには標高3000メートルを超える火山が不気味な形でそびえている。しかも、海から吹きつける塩風のため、乾燥が著しく、夏には真っ白な塩の平原が地平線まで続き、一見、厳冬気の雪野が続いているような錯覚にさえ襲われる。
この奇岩大地は、有史以来、エンジェス火山やハサン火山が何度となく噴火を繰り返し、火山灰と溶岩が数百メートルも堆積し、その上に降り注いだ風雨や湧き水が岩の柔らかい部分だけを浸食した結果、自然に造り出されたものだ。
1年の半分はすべてのものを焼き尽くすような炎熱地獄、残りの半分はすべてのものが凍りつくような極寒地獄……。このようあ、あまりにも厳しい気候条件も、この地が地獄といわれる理由の1つになっている。
ところが、この苛酷な環境を好んで、あえてカッパドキアに移り住む者もいた。4世紀ごろに端を発する初期のキリスト教の修業僧たちだ。彼らは生と死の境界線を思わせるようなこの地に身を置き、神の摂理を体感し、信仰の奥戯を究めようとしたのである。
修業僧たちはカッパドキアの奇岩に住み着き、さらに時代が進むと、洞窟を堀り進めて、その内部に教会や修道院を造るようになった。カッパドキアの洞窟教会が盛んに造られたのは8〜10世紀といわれ、最盛期には6万人を超すキリスト教徒が暮していたといわれている。
現在、発見されているものだけで2000を超えるといわれる洞窟の聖堂や修道院の内部には、直接、ベンガラで描かれた壁画や、漆喰(しっくい)の上に多彩な色を施した壁画がところ狭しと描かれている。世界中からカッパドキアに観光客が訪れるのは、このみごとな壁画を一目見たい、という気持ちを抑えきれないからだ。
特にギョレメ渓谷で最も美しい青銅といわれるエルマル・キリセに残る「全能のキリスト」は、訪れる者に向かって大きく手を広げ、いまも世界の悩める人にあまねく救いをもたらそうとしているようだ。
このカッパドキアには、さらに想像もつかない謎が潜んでいた。発端は1965年の雨あがりの日、一人の農夫が偶然発見した地下に通じる不気味な穴だった。その穴の奥には、無数の地下都市が築かれていたのである。
地下都市は150メートルもの深さがあり、幾層にも別かれ、驚いたことに数万人という規模の人々がしばらく生活できるだけの設備を整えていた。たとえば地上に通じる空気穴。これがあれば呼吸ができる。食物の保存庫、無数に残された水瓶(みずがめ)、おびたたしい油のストック、さらには薪炭の置き場……。地下で調理した場合の排気穴も設けられていた。
現在までに発見された地下都市は、大小取り混ぜて、実に300とも400ともいわれている。最大規模を誇るのはオズコナークで、人口数万人を収容できる規模だというから、仰天する。ほかに1万5000人規模のカイマルク、ほかにも万単位の収容力をもつデリンクユ、ギョズデンの地下都市が発見されている。
しかも、各都市は人工的に造られた地下道で結ばれており、地下道はもっとも遠いところで9000メートルにも達している。数百という地下都市は緻密なネットワークで結ばれていたわけだ。
現代の建築技術でも、地下に数万人規模の人口を擁する都市の建設は、まだ実現されていない。この精巧な配慮のもとに完成された地下都市はいったい、いつごろの建造物なのか。何のために数万、数十万の人が地下に潜んで生活しなければならなかったのか。カッパドキアの地下都市に関するかぎり、すべてまだ深い闇の中である。

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どうでもいい、じじぃの日記。
平川陽一著 『愛蔵版 世界遺産・封印されたミステリー』という本を見ていたら、「数万人も収容できる地下都市はいかにして造られたか?」というのがあった。
カッパドキアとはトルコの首都アンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう。考古学的な景観も含んでいることから1985年にギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群として、ユネスコ世界遺産に登録された。
ローマ帝国によるキリスト教徒への最初の迫害は64年ごろネロによって行われた。その後も迫害が続いたが、キリスト教徒たちは屈服することなく、3世紀中頃までには、強力な指導体制をもつ宗教集団に成長していった。
249年にデキウスがローマ皇帝に就任した。デキウスは伝統宗教復興を目的として、すべての国民がローマの神々に参拝し、その参拝を役人に証明してもらうことを義務づけた勅令を発したことで、結果としてキリスト教徒は迫害されることになった。
ローマ帝国により迫害を受け、カッパドキア、その周辺の地に移り住んだキリスト教徒たちが、ローマの迫害を恐れて地下に潜行したというのだが、その数が6万人にも達したという。
「各都市は人工的に造られた地下道で結ばれており、地下道はもっとも遠いところで9000メートルにも達している。数百という地下都市は緻密なネットワークで結ばれていたわけだ。現代の建築技術でも、地下に数万人規模の人口を擁する都市の建設は、まだ実現されていない」
トルコは「東西文明の十字路」とも呼ばれ、コンスタンチノープルはその後、東ローマ帝国の首都になった。
一度、トルコに行ってみたかった。親日国ということでもあるし。