じじぃの「世界遺産・秦始皇兵馬傭・東を向いて並ぶ兵士の視線!本当はどうなんだろう」

秦陵模擬圖-NHK秦始皇.avi 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=czqeU019pt8&feature=related
Terracotta Warriors of Qin Shi Huang Mausoleum 始皇帝陵出土 兵馬俑 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=nNhASEF-NZo
兵馬俑 画像
http://www.geocities.jp/y_11510/IMG_0275.JPG
万里の長城 画像
http://www.hotelskip.com/images/photo/po_bjs_p4jn.jpg
兵馬俑 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E5%85%B5%E9%A6%AC%E4%BF%91%E5%9D%91&oi=image_result_group&sa=X
秦始皇帝陵及び兵馬俑 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
秦始皇帝陵及び兵馬俑は中国陝西省の秦始皇帝の陵(墓)とその周辺にある兵馬俑坑のユネスコ世界遺産文化遺産)としての総称である。
【概要】
秦の始皇帝は中国史初の皇帝であったが、その強大な力を利用し大きな陵墓を建てた(人形を作り埋葬したのは二代皇帝胡亥という説もある)。これが秦始皇帝陵である。1974年に地元の住民により発見された。また兵馬俑坑は、この陵を取り巻くように配置されており、その規模は2万m2余におよぶ、きわめて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いている。

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世界遺産ライブラリー [秦の始皇帝陵] NHK世界遺産
紀元前3世紀、7つの国が覇を競い合った戦乱の時代を制して、中国に巨大な統一国家を打ち立てた秦。中国史上、最初の皇帝となった秦の「始皇帝」が、70万人の労働力と40年の歳月をかけて作り上げた巨大な陵が、中国の西安郊外に残されています。1974年、この始皇帝陵から1kmほど離れた場所で偶然、地中に埋まった素焼きの像が発見され、地下5メートルの巨大な地下空間に、おびただしい数の兵士や馬の素焼きの像が埋まっていることがわかったのです。「兵馬俑」は始皇帝陵から伸びる道に沿って配置されており、巨大な陵の一部を成していました。
「シリーズ世界遺産100」では、20世紀最大の発見と言われた兵馬俑を紹介します。中国統一を果たした強大な秦軍を克明に模して作られた兵馬俑からは、当時の軍の陣形や民族構成までも見て取れます。不老不死の命を求めてやまなかった始皇帝は、この地下軍団を率いて黄泉の世界をも支配しようとしていたのでしょうか。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards027.html
スパモク !! 「教科書にのせたい!」 2011年5月3日 TBS
【司会】ウッチャンナンチャン松本志のぶ 【ゲスト】伊集院光、ユージ、宮崎美子、ビビる大木、その他
秦始皇帝陵及び兵馬俑坑(中国)
学習院大学の学者が兵馬俑の真実を紹介。8000体の兵士達の像は900人の職人が12年以上の歳月をかけて作り上げ、それぞれの顔は全てが異なる。
http://www.tbs.co.jp/supamoku/
『愛蔵版 世界遺産・封印されたミステリー』 平川陽一/著 PHP研究所 2010年発行
兵馬傭がすべて東を向いて並べられている不思議 【遺跡名】秦の始皇帝 (一部抜粋しています)
西安の北東36.5キロメートルのところにある秦始皇兵馬傭(よう)博物館に一歩、足を踏み入れた瞬間、誰もが言葉を失うという、その壮大さ、精緻さ。すべて想像をはるかに越えたものが目前にはてしもなく続くからである。
現在、公開されている1号坑、2号抗、3号抗に居並ぶほぼ等身大の兵士の素焼き傭は約7000体。ほかに、100余りの戦車、600余りの陶馬……。おびただしい数である。
傭とは人や動物などをかたどった細工ものである。死者と共に葬られる副葬品として造られることが多い。古代では、王の死後は周囲の者はことごとく王と共に葬られ、殉死する習慣があったが、これはあまりにも残酷である。また、王の側近や重臣がこぞっていなくなったのでは、実際の政治もしばしば混乱しただろう。
そこで始皇帝の時代には、共に葬られるのは傭になっていた。しかし、それにしても、兵士、馬など合せて1万体近い傭を造った皇帝は歴史上、ほかに例はない。
また、この近くから、同規模の兵器傭も発見されている。いったい、兵馬傭総体の規模はどれくらいのものだったのか。ただただ、圧倒的なスケールであるというほかに、もはや、想像もつかないというのが本当のところである。
始皇帝は、紀元前221年、中国史上初めて全国統一をなし遂げ、自ら、始皇帝を名乗っている。周囲の属国を次々と平定した彼は、それまでの秦の王という称号ではもの足りなくなった。そこで、重臣を呼びつけると、
「わしは6カ国を打ち負かし、天下塔統一を果たした。実に、中国史上初の偉業である。もはや、一国の主であることを示す王という称号では十分ではない。もっと、わしの功績にふさわしい称号はないものか」
と尋ねている。すると、重臣の一人がこう答えた。
「はるか昔に、帝と申す称号があったと伝えられております。その帝に、王の尊称である秦皇を合せて、皇帝と名乗ってはいかがでしょうか」
これは大いに満足した王は、以後、「始皇帝」を名乗ることにしたという。
始皇帝は名だたる土木工事好きだった。天下を統一できたのも、膨大な雪解け水が流れ込んで洪水に悩んでいた四川省成都に堰を造り、長年の洪水の悩みを解消し、広大な一帯を豊かな実りをもたらす農耕地に変えたのがきっかけだった。この功績で、彼は人民の圧倒的な指示を得るに至った。
この堰は、現在もなお使われているというから、その着眼のすばらしさ、さらには工法の優秀さがどれほどのものだったか、説明の必要はないだろう。
万里の長城の建設も、始皇帝の弦の一声からだった。東は渤海湾の山海関から、西は西域入口の嘉峪関まで、主要部分だけでも約3000キロメートルにおよぶ、世界最大規模の大工事である。
だが、何よりも始皇帝の土木工事好きを物語るのは、意表をつく巨大なスケールの兵馬傭坑だろう。
兵馬傭坑の発見は1974年だった。畑地に井戸を掘ろうとしていた農夫の鋤(すき)の先が固い土の層を突き破って土中の空洞を掘りあて、中に土で焼いた人形のようなものを見出したことからだ。実に2000年余りも盗掘されずに眠っていたのは、奇跡としかいいようがない。実際、すぐ近くにある始皇帝陵のほうは、かなり盗掘された痕跡がうかがわれるのである。
司馬遷の『史記』には、始皇帝は自らの陵墓と兵馬傭の建設のために、刑徒70万人余りを動員したという記録が残っている。三泉まで掘り下げたというから、三層の地下水に達するまで深く堀り、上には天文、下には地層を備え、水銀を注ぎ入れて、百川、江河、大海を造り、盗掘する者があれば、弩(いしゆみ)が自動的に飛び出す装置まで備えていた。
始皇帝は、陵墓の周辺の地下濠に、この世のすべてを移そうと思いついたのだろう。それも、この世をそっくりそのまま、あるがままに。
あるがままにという発想は、兵馬傭にも貫かれている。兵士は騎馬隊、戦車隊など機能別になっているばかりか、一人一人、顔も姿も微細なところまで異なる様子は、どう考えても、一人一人、実在の兵士をモデルにしたとしか考えられない。一説には「実際に兵士を土で固めて型をとり、それを焼いた」とさえ伝えられるほどリアルなのである。一体一体、顔つきが異なることから、兵士たちの出身地まではっきりわかっている。
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ところで、兵馬傭の発掘が進むにつれて、大きな謎が浮上してきた、1万体近い兵士と馬はすべて、東を向いて整然と並べられているのである。もし、この軍団が近隣諸国からの襲撃を撃退するものなら、兵士は東西南北、全方位を向いて立ち、どこからせめられてもいいように万全の構えをとっていなければならない。

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どうでもいい、じじぃの日記。
5/3、TBS 『スパモク !! 』の「教科書にのせたい!」を観ていたら「秦始皇帝陵及び兵馬俑坑」が出てきた。
「兵士は騎馬隊、戦車隊など機能別になっているばかりか、一人一人、顔も姿も微細なところまで異なる様子は、どう考えても、一人一人、実在の兵士をモデルにしたとしか考えられない。一説には『実際に兵士を土で固めて型をとり、それを焼いた』とさえ伝えられるほどリアルなのである。一体一体、顔つきが異なることから、兵士たちの出身地まではっきりわかっている」
兵馬傭は等身大で約8000体もあるというのも驚きだが、その一体一体、顔つきが異なっているというのも驚きだ。
「教科書にのせたい」では、この兵馬傭をコンピュータ・グラフィックで造られた当時の状態に再現して見せた。
この兵馬傭は約2200年間、土中に埋められてあったために、兵士、馬から色彩が無くなってしまっているが、復元された兵士、馬からは赤や、緑に彩られたきらびやかな像が浮かび上がった。
中国・西安の北東36.5キロメートルのところにある秦始皇兵馬傭は1987年にユネスコ世界遺産に登録された。
万里の長城」を造ったのも始皇帝だった。始皇帝は紀元前221年に史上初めて中国を統一し、49歳で亡くなった。
彼は死を恐れた。徐市(徐福)という道士に不老不死の薬を求めて船出させたが、老いの来る前に死を迎えなければならなかった。
「兵馬傭の発掘が進むにつれて、大きな謎が浮上してきた、1万体近い兵士と馬はすべて、東を向いて整然と並べられているのである」
東の国とはどこだろうか。不老不死の薬があるという東の国、長寿の国とは一体どこなのだろうか? (わざとらしい)
始皇帝は東の国からの不老不死の薬を待ち続け、東の方向を見ながら死んでいったのである。
兵馬俑を造った人たち約2万人は殺され、真実は闇に葬られた。