じじぃの「自分の中に自分でないもの!本当は恐ろしいほど残酷な」

有吉玉青(ありよしたまお) 画像
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Arsen Dedi? - Moderato Cantabile 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=BeAC-xmRRzA
Moderato Cantabile - On the bench 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=LIuC-ttA_eA&feature=related
雨のしのび逢い Google 検索
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雨のしのび逢い(1960) goo 映画
【あらすじ】
ブレーはフランス西海岸のひっそりした田舎町である。そこの製鉄所長の妻アンヌ(ジャンヌ・モロー)は、ピアノ教師の家で、窓の外に突然女の悲鳴を聞いた。同じ建物の一階のカフェからだった。アンナは異様な光景を見た。悲鳴の主はすでに息たえて横たわり、その上に男がかがみこんで愛撫をくりかえしているのである。アンヌにとって、これは大きなショックであった。その夜、あの不思議な殺人者が、警官に腕をとられながら、床上の倒れた女にそそいでいた燃えるような視線が、彼女の脳裏を離れなかった。結婚以来8年、アンナはこの町に住んでいる。何一つ不自由のない、名流夫人である。しかし、彼女の夫には、あの殺人者の激しい情熱はなかった。相手を殺すほどの愛情、この世にそんな強い愛があったとは--。彼女の心は大きく揺れ動いた。翌日、彼女は一人の男から話しかけられた。鉄工所の工員ショーバン(ジャン・ポール・ベルモンド)で、会話は当然のことのように昨日の事件に向けられた。が、それは推測でしかない。二人はそれから毎日のように会い、愛し合う仲となった。7日目、ショーバンは「君は死んだ方がいい」といい残して去った。激しい愛の言葉と知りながらも、消えて行く男を見送って、アンナは号泣した。事件の女の悲鳴にも似たうつろな叫び声をあげて。彼女は、人妻であり、母であることに変りはない。だが、彼女の心の中の何ものかは、ショーバンへの愛と共に死んだのだ。翌日から、アンヌの人妻にふさわしい毎日がふたたびはじまる。夫はこれからのちも、ひと言も彼女を責めないだろう。ブレーの町には、大した事件は起らないのだ。
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モデラート・カンタービレ 文芸空間
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『私はまだまだお尻が青い』 有吉玉青/著 大和書房 1996年発行
何よりもコワイのは (一部抜粋しています)
谷崎潤一郎の「途上」(『文豪ミステリー傑作選』収録/河出文庫)は、怖い小説である。ある事件をめぐって途上で交わされる探偵と容疑者の会話が全篇を貫くもので、探偵が産婆術まがいの誘導尋問をしてゆく。そのうちに、容疑者による周到極まる犯罪計画が暴かれることになるのだが、私はこれを容疑者が自分の奥の奥にあった殺意を追認してゆく過程のように読んだ。
阿刀田高氏が言っておられたことだが、「さまざまな恐怖の中でもっとも恐ろしいのは、自分自身の中に自分でないものを発見するときではあるまいか」。
偶然のような事故も、意識的、無意識的な所作の集積によるような気がしてくる。それもそんな気が、谷崎の文体のリズムによって漸次に増してくるからたまらない。真実、その夜はうなされてしまったのである。
マルグリット・ヂュラスの『モデラート・カンタービレ』(田中倫郎訳/河出文庫)を読んでいるときも、同じ類の動揺を内心に感じた。
何不自由なく無為に、けれど漠とした不安を感じている主人公アンヌ。彼女のその漠たる気持ちが、形になってゆく様が興味深い。
それはたまたま目撃した情痴殺人事件に端を発す。自分が殺した女の上で半狂乱に転がり廻る男。その光景は自身の心の奥底の、そのまた奥に届くような衝撃を、彼女に与えた。
彼女だけならその衝撃を解明出来なかったであろう。ヂュラスはそこにひとりの男を送る、彼女がその男を愛したかは謎だが、日ごと彼女は酒場に通い、男とかの事件について語り合うのだ。
彼女はことさらに、その殺人事件のいきさつを探りたがる。2人とも現場を見ただけで詳しいことは知るはずもなく、いっさいが想像にゆだねられるが、そんな中で、男は巧みにアンヌ自身に話をスライドさせてゆく。知らずアンヌは、自身気づかずにいた欲望を、被害者の女に仮託させていった。彼との会話な中で、アンヌは自分の中の無意識が形をとってゆくのを見るのである。そうした2人の会話が、かの探偵と容疑者のそれを彷彿とさせる。
殺人事件の被害者は、何の根拠もなく、男によって呼ばれ、あるいは追い出され、言いなりになる「犬のような」女ということに脚色されていった。そしてある昼下がり、アンヌは男にこう呟くのである。
「怖いわ」
彼女はもう、自らの抑圧されていた欲望に気づいてしまった。けれど、だからと言って何が出来ようか。

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どうでもいい、じじぃの日記。
図書館に、有吉玉青著『私はまだまだお尻が青い』という変わった題名の本があった。
『私はまだまだお尻が青い』か。中をパラパラ、めくって見た。著者はあの『紀ノ川』や『華岡青洲の妻』を書いた有吉佐和子のお嬢さんだ。
「何よりもコワイのは」というエッセーの中に、
「さまざまな恐怖の中でもっとも恐ろしいのは、自分自身の中に自分でないものを発見するときではあるまいか」
と、いうのがあった。
自分が何かに恐いと思うときには、無意識で自分自身の中に自分でないものを発見した時なのかもしれない。
楳図かずおの漫画『漂流教室』は怖かった。
ヒッチコック監督の『サイコ』は怖かった。
子供の頃、お墓の前を通りすぎることが怖かった。
これらは、何か「自分自身の中に自分でないもの」と関係しているのだろうか? みんな、「死」とどこかでつながっている。
今どきで、「自分自身の中に自分でないもの」といったら「がん」だ。
体の免疫機能は自己と非自己を認識して、非自己をやっつけてくれる。それが自己を攻撃するようになることを免疫異常という。
それは、「どじょう」が「金魚」のまねをするときなのかもしんない?