じじぃの「象形文字・楔形文字とフェニキア文字!アルファベット」

The Alphabet Song 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=U1qXb9MpA38&feature=related
canaanite-phoenician langauge: my first speech 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=urWdjec5H04&feature=related
フェニキア文字 画像
上段がフェニキア文字、中段がティリア文字で、下段がアルファベット。
http://blog-imgs-27.fc2.com/t/r/a/travelpocketbook/Character_List_J.jpg
楔形文字 ウィキペディアWikipedia)より
楔形文字(くさびがたもじ)とは、言語の表記に用いられた文字としては最も古いものである。紀元前3500年頃にシュメール人によって発明された。元は絵文字としての性格が強かったが、長期間繰り返し使われるうちに、次第に単純化・抽象化されていった。シュメール文字アッカド語エラム語、ヒッタイト語、ルウィ語に借用され、また古代ペルシア楔形文字やウガリト文字などの独自の文字の発達を促した。この文字を使用した文明・文化の研究は、一般に「アッシリア学」と呼ばれる。 楔形文字という名称は、1712年にE.ケムペルが日本事情をヨーロッパに紹介した本の中で使われてから一般でも使用されるようになったとされている。
【発展】
楔形文字は本来シュメール人によってシュメール語記録のために発明されたものである。しかし、次第に近隣の他の民族に借用されていった。アッカドバビロニアエラムヒッタイトアッシリア楔形文字はそれらの民族固有の言語を書くのに用いられた。楔形文字メソポタミア全域で3000年にわたって用いられた。とはいえ、シュメール人が磨き上げた楔形文字本来の音節文字的な性格は、セム語族の言語話者には使い勝手のよくない仕組みだった。シュメール文明が再発見される以前は、多くの言語学者がこの事実に促されて、バビロニア文明に先立つある文明を仮定した。
シュメール楔形文字の後世の借用は、少なくともシュメール文字のいくつかの特徴を保存している。アッカド語文献は、シュメール語の音節を表す音節文字と一語にまるごと対応する表語文字を含んでいる。楔形文字の多くの文字が、音節と意味の両価を示している。楔形文字ヒッタイト語を書くのに借用されたとき、アッカド語表語文字的な書き方が加えられ、その結果多くのヒッタイト語の単語が表語文字的に書かれたため、その音価を今日推定することはもはやできなくなった。音節文字と表語文字の複合した筆記システムの複雑さは、日本語の筆記システムの複雑さと比べることができる。日本語が漢字で書かれる場合は、ある文字は表音的で、ある文字は表意的に用いられ、文脈によって音価がまちまちに取られる。また、漢字から発展した純粋に表音的なカナもまた用いられる。楔形文字で書かれたヒッタイト語もまた同じような表記体系を持っていたのである。
表記体系が複雑だったため、楔形文字にはいくつもの簡略化された系統が発展した。古代ペルシア語は簡略化された楔形文字の組み合わせによって書かれた。古代ペルシア楔形文字は、単純な、アルファベットのような音節文字で、一つの組を表す楔形文字の画数はアッシリア文字で使われたよりはるかに少ない。頻繁に使われる「神」や「王」といった語は表意化されている。ウガリト語はウガリト文字を使って書かれた。これは楔形文字的方法で書かれた、標準的なセム語形式の文字(アブジャド)であった。
アラム語の使用がアッシリア帝国の治下で広汎に拡がり、アラム文字が次第に楔形文字に取って代わっていった。現在知られている楔形文字の最後の例は、紀元後75年に書かれた天文学上の記録である。
フェニキア文字 歴史】
19世紀にフェニキア文字が初めて発見されたとき、その起源は不明だった。当初、学者たちはこの文字体系がエジプトヒエログリフの単なる変種であると考えた。この考えは、当時ヒエログリフが解読されていたことから、広く支持を受けた。しかしながら、この2つの文字体系の間につながりを見つけ出せた研究者はいなかった。ヒエラティック楔形文字と関係があるという仮説を立てる研究者もいたし、なにか他の文字体系に触発されて独立に創り出されたのであろうという仮説を立てる研究者さえいた。独立創作説には、一人の人物が思いついたというものから、ヒクソスによる片言のエジプト語から形成されたというものまで、さまざまなものがあった。
まず、エジプトヒエログリフから原シナイ文字が生じた。紀元前1500年頃からシナイとレバントで、おそらく初期西セム語の話者が用いるようになった。それがカナンで紀元前1400年頃から原カナン文字へと発展し、カナン語 (北西セム語) の表記に採用された。
原カナン文字とフェニキア文字はひとつながりのもので、フェニキア文字に変わった時期を定めることはできないが、便宜的に紀元前11世紀半ば以降のものをフェニキア文字と呼んでいる。
フェニキア人による音素文字の採用は非常な成功をおさめ、さまざまな変種が地中海で前9世紀頃から採用された。さらには、ギリシア文字、古代イタリア文字、アナトリア文字、イベリア文字へ発展していった。その成功の理由のひとつは、音声的特徴にあった。フェニキア文字は1つの記号で1つの音を表す文字体系としては、初めて広く使われたものである。当時使われていた楔形文字やエジプトヒエログリフなど他の文字体系では多くの複雑な文字が必要で、学習が困難だったのに比べて、この体系は単純だった。この一対一方式のおかげで、フェニキア文字は数多くの言語で採用されることになった。
【アルファベット 歴史】
知られている最初のアルファベットは、紀元前1700年〜紀元前1500年頃に地中海東部の沿岸地域で発達したと一般に考えられている。このアルファベットは北セム文字と呼ばれ、楔形文字ヒエログリフを組み合わせてできたものであるが、クレタ文字やヒッタイト文字のような類縁関係にあるアルファベットから採られたものもあるようだ。北セム文字には子音をあらわす文字しかなく、単語の中の母音は補って読まなければならなかった。紀元前1000年頃に北セム文字が、南セム文字、カナン文字、アラム文字、ギリシア文字の4つの系統に分かれたと考える学者は多い。ただし、南セム文字だけは北セム文字とは独立に発達したか、両者が共通の祖先から発達したのだという説もある。南セム文字は、アラビア半島でかつて用いられていた諸言語や、現代のエチオピアの諸言語のアルファベットの起源である。
ギリシャ人はセム文字系統のフェニキア文字を採用し、もともと子音字22文字だったものを、24文字(方言によってはこれより多いものもある)に増やし、母音を表す文字と子音を表す文字を区別するようにした。紀元前500年頃からは、ギリシャ文字は左から右に書かれる規則が成立した。ギリシャ文字は、地中海地域全体に広まり、エトルリア文字、オスク文字、ウンブリア文字、ラテン文字などのもととなった。中でもラテン文字は、ローマ帝国の言語であるラテン語を記すための文字だったため、西ヨーロッパで話されているすべての言語のアルファベットの基礎となった。

                                              • -

エゼキエル書の「神の園エデン」と創世記の「エデンの園」の関係について述べよ。 2014/12/4 Yahoo!知恵袋
回答
創世記もエゼキエル書も繁栄と驕りと腐敗、そして滅びがてテーマなのですね。
エゼキエル書28章には湾岸交易で栄えたティルスの町を「神の園エデン」と称し、その繁栄ぶりと腐敗そして滅び。
創世記がユダヤ人国家のことを書いているとすれば、ユダヤ人の関心は当然何故我々はバビロニアアッシリアに滅ぼされたのかにあるのでしょう。
お前は「神の園であるエデン」にいた。あらゆる宝石がお前を包んでいた。
ルビー、黄玉、紫水晶/かんらん石、縞めのう、碧玉/サファイアざくろ石、エメラルド。≫贅を尽くした王政が生活が社会の緩みを生み大国につける隙を与えた。
明確な答えはわかりませんが、、創世記はバビロン捕囚ののち、復古主義思想・ユダヤ民族統一・歴史への批判などを意図して書かれたということにヒントがあるのでしょうね!
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12139004097
ヒッタイト帝国―消えた古代民族の謎』 ヨハネス・レ-マン/著、内野隆、戸叶勝也/翻訳 佑学社 1979年発行
楔形文字象形文字 (一部抜粋しています)
はるか昔、人間がなにかを書こうとしたとき、ある特定の音に対して特定の符号を用いず、意味のある絵を用いた。この絵文字はたとえば波状の線が描かれているときは水を、鴨が描かれているときは鴨を表わし、話し言葉の単語の音とはまったく関係がなかった。この文字は、たとえその言語を使いこなせなくとも、なにが書いてあるのかすぐわかるので習う必要はなかった。したがってはるか昔の絵文字は、非常に簡単でしかも「国際性」があるという大きな長所を持っていた。
しかし表現する概念や行動が多くなればなるほど、また記述する出来事が抽象的であればあるほど、より多くの複雑な符号を見つけ出さなければならず、ついには習うことも必要となった。
これは何千という符号から成り立っている中国語がたどった道である。それにくわしい人なら意味もわかるし、その起源となっている絵記号にまでさかのぼることができる。
単語を書くときに個々の音と音節に分けることになれている我々ドイツ人にとって、たとえば、たとえ中国語の単語1つさえも話したり耳で聞いて理解できなくとも、中国語を完全に読み書き理解できる人がいるということは信じられないことである。
符号を理解する場合に話し言葉は関係ないということや、また今日でも多くの分野でこの絵文字言語方式を使用していることに、我々は多くの場合まったく気がついていない。
たとえばローマ数字は純粋な絵文字である。Ⅰ、Ⅱ、Ⅲは指の数を表わし、Vは広げた手の様子を、Xは2つの広げた手を表わしている。
Ⅲは英語ではthree、フランス穂ではtrois、フインランド語ではkolmeということを知らなくともよい。我々は言語の音とは関係なくその符号を理解できる。それは音とは関係なく、国際的になっているアラビア数字も同じことである。
交通標識もまた純然たる象形文字である。この近代的な象形文字がなければ、我々は異なった言語の使われている外国でまったく迷ってしまうだろう。ところが絵なら我々はすぐ理解し、自分の言語でその意味を表現できる。
     ・
純然たる象形文字大きな長所を持っているが、絵による言葉の多くは非常にたくさんの符号に広がることを恐れて、中国語とは別の道をたどった。
つまり絵記号に音標記号をあてはめたのであった。エジプトの象形文字は、今日でも女、男、目、水などのように、すぐわかる絵からできているが、音標記号をあてはめる場合には、決定的なことだが、そこに表わしている意味とはもはや関係がなくなる。たとえば雄牛の頭の絵は、もはや雄牛を意味せず、雄牛にあたる単語<Alef>は<A>で始まるので<A>の音を表わす。家は<Bait>なので<B>の文字を表わす。したがってこの両方をいっしょに書けばABとなり、我々がフェニキア人から取り入れたように「アルファベット」となる。
個々の符号をさまざまな音のために選択するという、我々ドイツ人にとっては当たり前の方法によって、実際文字の数は自然と制限された。しかし短所としては、文字は言葉に結びついているし、その言語を話せる人にしか理解されないことである。つまり私は、troisとかthreeとかがどんな意味か習わなければならなくなる。
象形文字を読むということは多少雑な判じ絵を解読するようなものと思ってはならない。エジプト人は首尾一貫していなかったから、事は本質的に複雑なのである。同じ絵記号が1つの本分の中で異なった役割を持っていることがある。一方は、花の絵が花を意味するように実際その物を表わしている。しかし他方多くの場合、その絵は個々の子音あるいは子音のつながりを表わす音標記号として使われている。たとえば、「農耕用の鍬」が描いてある場合は、実際の農耕用の鍬を意味することもあるし、同時に「愛する」という意味にもなる。なぜなら、農耕用の鍬を意味する話し言葉が、愛するという語を意味する子音のm-rからできているからである。
さらに読むときの補助手段として絵記号と音標記号の他に、書かれているだけで読まれない、いわゆる限定記号が考案された。それは子音が同じ意味内容のものが混同されるのをさけるために使われた。たとえばm-n-hという語はパピルスの草、青年、蝋という3つの意味を持つが、このm-n-hがなにを意味するかによって、その概念を明らかにするために植物、男、あるいは鉱物の象形文字が描かれたのであった。したがって同じ絵記号でもその本来の意味を表わしたり、1つの音標記号を意味したり、時には限定記号としてまったく無声の存在にもなる。
このことに気がつくまでは、当時の言語慣習にしたがって、象形文字は「読めないもの」とされていた。ところがフランスのシャンポリオンは1822年に2ヵ国語で書かれた碑文(特にロゼッタストーン)から、プトレマイオスクレオパトラという2つの名前を読むことに成功し、その結果だんだんと象形文字の解読にも成功していった。
     ・
紀元前2000年代にメソポタミアで発達した楔形文字は、今では信じられないことだが、エジプトの象形文字と同じ絵文字から発生した。
それはユーフラテス左岸のウルクで見つかった絵文字で最も古い有名な文字である。裂けたアシを使い、うまく記号が刻めるように湿った粘土を使ったため、渇いてだんだんと尖った形になったのである。それによってこの文字の名前となった特徴的な「くさび形」が発生したのであった。
楔形文字は構造がエジプトの象形文字にとても似ていて、絵記号、音標記号、(無声の)限定記号と同じような記号を用いている。ただ楔形文字には、子音だけでなく音節も表わせるという違いがある。つまり母音も書き表わせたのである。
原理は同じであったが楔形文字の解読には長いことかかった。1802年、ドイツの言語学者グローテフェントが数人の支配者の名前を読み、最初の鍵を見つけたが、その後やっと1860年頃になって楔形文字を使っているいろいろな言語を読むことが可能となった。今日多くの言語がラテン文字のアルファベットを使っているように、当時シュメール、アッカドエラムヒッタイト、古代ペルシャ、及びその他の諸民族が楔形文字を使っていた。
このいわゆるバビロニアアッカド楔形文字は、発端が同じであるにもかかわらず、純粋な字母に発展しなかった。一方ペルシャ楔形文字は、やっと紀元前500年頃になって、ついに字母と音節文字が融合し41の文字(36の音標文字と5つの限定文字)が発生するに至った。それは楔形文字で書かれた唯一の純粋なインド・ヨーロッパ語である。
楔形文字は、象形文字と同じように、時がたつうちにその煩雑さから、純粋な音標文字を切り離してしまった。象形文字草書体(いわゆる民衆文字)の最後の手紙は紀元前470年頃のものである。その間にフェニキア人は、最初から字母アルファベットを使う新しい書き方をすでに「発見」していた。
ヒッタイトは固有の象形文字を持っていた。それは記念碑(ハマトの石のように)や封印のように、特に祝い事のために使われた。しかしヒッタイトは彼らの固有の言語を書き表わすために、バビロニアアッカド楔形文字をも使っていたのである。

                                              • -

どうでもいい、じじぃの日記。
吉成薫著 『ファラオのエジプト』という本をめくっていたら「ヒクソスの王たち 異民族による最初の支配」というのがあった。
「ある時に突如、東方から軍事集団がエジプトに侵入し、武力で圧倒し、王となって君臨した」
昔、チャールトン・へストン主演の映画『十戒』を観た。へストンが演じるモーセがエジプト王の圧政から逃れ数万人のイスラエル人を連れて、約束の地「カナン」に向かう途中のシナイ山で神から十戒を授かるというストーリーだ。
彼らは、今のレバノンのカナンの周辺に住んでいた人達だった。そして彼らがエジプトに住みついた場所がカルタゴ(現在のチュニジア)であった。
その後、エジプト情勢が変わり、彼らはモーセに導かれ、カナンに戻った。
ヒッタイト帝国―消えた古代民族の謎』という本に、「楔形文字象形文字」というのがあった。
「たとえば雄牛の頭の絵は、もはや雄牛を意味せず、雄牛にあたる単語<Alef>は<A>で始まるので<A>の音を表わす。家は<Bait>なので<B>の文字を表わす。したがってこの両方をいっしょに書けばABとなり、我々がフェニキア人から取り入れたように『アルファベット』となる」
アルファベットの「A」はもともと雄牛を表わしていた。Aをひっくり返すと、雄牛の頭の絵になるのである。
ヒエラティック楔形文字と関係があるという仮説を立てる研究者もいたし、なにか他の文字体系に触発されて独立に創り出されたのであろうという仮説を立てる研究者さえいた。独立創作説には、一人の人物が思いついたというものから、ヒクソスによる片言のエジプト語から形成されたというものまで、さまざまなものがあった」
象形文字 → 楔形文字 → アルファベット
とは単純にいかないのだ。
象形文字 → 象形文字楔形文字フェニキア文字) → アルファベット
と考えるのが一般的らしい。
エジプトに住みついたヒクソスの人々がエジプトのヒエログリフ象形文字)を自分たちの楔形文字に取り込んでフェニキア文字を作った。
そう。カナンに戻った人々は実はフェニキア人だったのである。