じじぃの「人の死にざま_680_橋本・龍」

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政府広報北方領土問題) 動画 YouTube
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橋本龍太郎 ホームページ
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橋本龍太郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう、1937年(昭和12年)7月29日-2006年(平成18年)7月1日)は、日本の政治家。位階勲等は正二位大勲位。愛称は橋龍(はしりゅう)。
衆議院議員(14期)、厚生大臣(第57代)、運輸大臣(第58代)、大蔵大臣(第93・94・103代)、通商産業大臣(第59代)、内閣総理大臣(第82・83代)、沖縄開発庁長官(第42代)、沖縄及び北方対策担当大臣、規制改革担当大臣などを歴任した。
【生涯】
東京市渋谷区(現在の東京都渋谷区)に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれた。
1956年、慶應義塾大学法学部政治学科に入学。大学でも剣道に力を入れた。とにかく前に出て攻めていたので“突貫剣士”というニックネームをつけられていた。 なお目の下には傷跡が残っていたが、大学時代軽井沢の別荘に行った時にチンピラと殴り合ってナイフで切られた名残であるという。大学卒業後、呉羽紡績株式会社(のち東洋紡績に吸収合併。クレハは分社した化学部門)に入社した。
1969年の総選挙では、選挙直前まで国会活動で多忙を極め、苦戦が予想されたが、自民党幹事長・田中角栄や佐藤派の中堅だった竹下登のてこ入れで3選を果たした。この事により、佐藤派内で田中、竹下に傾倒することになり、佐藤引退を受けての総裁選挙では、かねてより保利茂系であったことから、父代わりとも言うべき佐藤が福田赳夫を支持するように示唆するのを固辞、田中派に参加した。
1995年9月、第17代自民党総裁に就任した。橋本は総裁就任に伴って、村山内閣改造内閣で副総理を兼務し引き続き通産相をつとめた。
1996年2月、アメリカのクリントン大統領との日米首脳会談で、橋本は普天間飛行場の返還を要求、4月に全面返還で日米政府が合意した。普天間の代替基地についても安全保障政策や環境政策が絡む中で米国や沖縄の基地自治体関係者と対談を行い、代替施設について名護市の受け入れ表明を取り付けて、普天間基地返還に本格的道筋をつけた。この結果、住専問題で逓減していた支持率が60%に上昇した。
1996年9月、党総裁に再選され、内閣改造を行い第2次橋本内閣改造内閣が発足。梶山に代わって村岡兼造官房長官に指名したほか、ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行総務庁長官に起用した。これに非難が集中、佐藤は11日で辞任した。佐藤は歴代内閣に入閣を拒まれ、橋本も入閣させない意向だったが、中曽根康弘らの強硬な推薦に抗し切れず起用するに至ったと言う。この一件で、支持率は30%台に急落、橋本の責任を問う声が上がった。
1997年11月のロシアのエリツィン大統領と日露首脳会談では、2000年までに平和条約を締結する事や両国の経済協力を促進する事で合意した。
同年11月に財政構造改革法を成立させ、2003年までの赤字国債発行を毎年度削減する等の財政再建路線をとった。しかし、景気減速が顕著となり北海道拓殖銀行山一證券などの破綻が起こると、党内やアメリカ政府から景気対策を求める声が上がるようになった。また、山一證券の破綻で、橋本の金融システム改革に伴う金融ビッグバンへの批判が相次いだ。これを受け同年12月、2兆円の特別減税を表明した。
同年12月、不人気に苦しんでいた森喜朗首相に請われ、行政改革担当大臣兼沖縄開発庁長官に就任。自身が進めた省庁再編を担当し、翌2001年、省庁再編で生まれた沖縄及び北方対策担当大臣に就任する。その仕事ぶりは政官ともに評価が高く、ポスト森(森の後継)に浮上した。
2001年4月の総裁選では、派内や公明党に待望論のあった野中広務を抑えて出馬。橋本擁立に当たっては派内若手から異論が出たが、当初は橋本の勝利が予想された。結局「小泉フィーバー」と呼ばれる絶大な人気を誇った小泉純一郎に敗北。小泉が298票を獲得したのに対し、橋本は155票で次点に終わった。
2006年7月1日、東京都新宿区の国立国際医療センターで腸管虚血を原因とする敗血症性ショックによる多臓器不全のため死去した。享年70。

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『インテリジェンス人間論』 佐藤優/著 新潮社 2007年発行
橋龍に迫られて…… (一部抜粋しています)
米原万里さんはロシア語の会議通訳、同時通訳としても第一人者だった。私のロシア語など100年経っても米原万里さんの水準には及ばない。今年(2006年)の七夕(7月7日)に米原万里参の「お別れの会」が内幸町のプレスセンターで行われた。ある新聞社の元モスクワ支局長が、追悼の辞で、かってモスクワのメトロポール・ホテルで米原万里さんが橋本龍太郎氏に迫られ、逃げ出した話を披露した。私は米原万里の「上からの介入」について思い出した。
1997年11月1日から2日、橋本龍太郎総理が西シベリアのクラスノヤルスクを非公式に訪れ、エリツィン大統領と会談した。2人ともノーネクタイで魚釣りやウオトカを飲んで楽しく時間を過ごすという装いの下で、北方領土問題に関する重要な交渉を行なった。そして11月2日に「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を終結するよう全力を尽くす」という「クラスノヤルスク合意」が発表された。東京宣言(1993年10月)では、択捉島国後島色丹島歯舞群島の名をあげ北方4島の帰属に関する問題を解決して平和条約を終結することが約束されている。従って、「クラスノヤルスク合意」とは2000年までに北方領土問題を解決するために全力を尽くすと日露両首脳が画期的合意だったのである。
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1998年の春、4月に伊東市川奈で予定された非公式首脳会談の準備で半徹夜が続いている私に米原万里さんによる「上からの介入」があった。私たちはホテルのコーピーショップで話をした。
「あなたなの、クラスノヤルスクで学芸会のような演出をしたのは」
「何のことですか」
エリツィンとロシア式に両頬と唇にキスをすることを教えたのはあなたでしょう。そんな仕掛けができる人はあなたしかいないわ。あなたたちは橋龍を使って何をしようと企んでいるの」
理論武装した職業外交官たちが誠実に交渉を進めても袋小路に陥るだけである。官僚に解決できない難問の突破口を国家指導者の政治力によって拓くことを考えている。そのためには橋本・エリツィン両首脳の信頼という「物語」が必要で、この「物語」の小細工のひとつが3回のキスである。このことを私は率直に米原万里さんに話した。
エリツィン大統領は米原万里さんをとても信頼していた。実は、ごく限られた人々しか知られていないが、ソ連崩壊前、ロシア共和国最高会議議長時代のエリツィンの対日政策には米原万里さんの意見がかなり反映されているのである。
「考え方はよくわかったわ。確かにエリツィンをターゲットにするならばその方法は効果があるわね。でもその前に重要な問題があるわよ」
「何ですか」
「あなたは、橋本龍太郎って人を信頼しているの」
「信頼しています」
「わたしは信頼していない」
そう言って、米原万里はかってモスクワで、橋本氏に迫られ、逃げ出した状況を話した。
「明日の会談で通訳してもらう内容について相談したいと呼びだして迫るのは男として卑劣だわ」
「そうですね。口説きたいならば仕事と絡めずに正々堂々となればいい。橋本さんはお酒を飲んでいたのかな」
「確かに酔っぱらっていたわね。仕事に絡めて呼び出して迫ってくるのは最低だわ。それにあの頃は私も力がなかったから、その後も黙っていたけど、いまだったら雑誌に書くわ」
しばらく、気まずい沈黙が続いたが、米原万里さんの方が口を開いた。
「私はつまらない男に惚れちゃうことがあるけど、男を見る眼はきちんとしているつもりよ。あなたのことは信頼しているわ。そのあなたが橋龍を信頼していると言うならば、そこは尊重するわ。しかし、あの人が最後までエリツィンと渡し合うことができるか、私には不安だわ」
「そこは橋本総理を支える私たちの責任が大きいです」

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