じじぃの「サド侯爵・性的倒錯者!本当は恐ろしいほど残酷な」

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マルキ・ド・サド フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
マルキ・ド・サド(1740年6月2日-1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族、小説家。
サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリの刑務所と精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1ヵ月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄に1年、そしてシャラントン精神病院に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものである。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。
【所有権と相続人】
「復活祭の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」、「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」等の不品行のかどで何度か投獄され(マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決が出ている)、獄中にて精力的に長大な小説をいくつか執筆した。それらは、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもある。だが、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、19世紀には禁書扱いされており、ごく限られた人しか読むことはなかった。サドはフランス革命直前までバスティーユ牢獄に収監されていたが、革命の影響で1790年に釈放される。だが、政治活動を行うも再び投獄された。後にナポレオン・ボナパルトによって「狂人」とされ、1803年にシャラントン精神病院に入れられてそこで没した。
サドの作品は、作者の精神状態を反映してか特に暴力的な描写において文法的に破綻を来してしまっているようなところが数多いが、20世紀に入ってから、そういった点がシュルレアリストたちによって再評価され、全集の出版が行われることになる。日本には木々高太郎式場隆三郎田辺貞之助丸木砂土こと秦豊吉遠藤周作澁澤龍彦、片山正樹たちによって紹介された。澁澤による『悪徳の栄え』の翻訳出版を巡って引き起こされた悪徳の栄え事件は、澁澤側の有罪(罰金刑)を以て終わった。
悪徳の栄え
ジュリエット物語あるいは悪徳の栄えとは、マルキ・ド・サドによって書かれ、1797年から1801年に出版された小説である。「新ジュスティーヌあるいは美徳の不幸」と対をなす作品である。この小説を書いたことによって、サドはナポレオンの命令によって逮捕され、シャロントン精神病院に13年入れられ、そこで獄死することとなった。

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『眠れぬ夜の恐ろしい話―西洋残酷人物譚』 桐生操/著 大和書房 2000年発行
倒錯の愛に生きた不遇の作家 サド侯爵 (一部抜粋しています)
ドナスィヤン・アルフォーンス・フランスワ・ド・サドは18世紀、南フランスの名門の家に生まれました。父はプロヴァンスに広大な領地を有し、母はフランスのブルボン王家にもつながる、そうそうたる名門でした。
金髪で色白のサド少年は皆からちやほやされて育ち、名門ル・グラン校から大貴族の子弟だけが入学できる士官学校に進み、19の年にはもう騎兵隊の大尉に昇進……という、まあ、絵に描いたような名門育ちのおぼっちゃん、家族の期待を一身に背負っていました。ただし当時のサド家は父伯爵の金づかいが荒いため家運は傾き、サド自身も早くから女癖が悪いというよからぬ噂をたてられていましたが……。
23歳のとき、サドは終身税裁判所朝刊のモントルイユ氏の娘、モネと結婚することになりました。サド家のほうは成金貴族である相手の莫大な資産が目当て、モントルイユ家のほうは、この縁談で王家と親戚になることが目的でした。見栄っ張りなモントルイユ夫人はこの縁談にもう有頂天。いろいろ入ってくる婿の女遊びの噂にも、「そんなのは若いときのハシカみたいなものです」と、理解のあるところを見せていました。のちにこの義母が態度を一変させ、不倶戴天(ふぐたいてん)の敵としてサドの前に立ち塞がることになるのですが……。
一方、新妻のルネは特に美人ではないけれど、控えめで大人しく、夫のすることには口を出さない理想の妻タイプ。彼女のほうは美男で秀才のサドに一目惚れ。サドのほうも、つつましく出しゃばらない彼女が気にいったようでした。
こうしてモントルイユ家の城で、まずは平和な新婚生活がはじまりました。義母との関係もはじめは円満で、夫人のほうではサドをちょっと軽いが気さくで面白い男だと思い、サドも何でもズケズケものを言って、たちまち遠慮のない仲になりました。夫婦仲もわがままで気の短いサドと、おっとりして従順な妻と……、まさに理想的な組み合わせでした。
けれど間もなくサドは、新婚生活の合間を縫ってパリに通い出し、郊外のヴェルサイユアルクイユに別宅をかまえるようになります。「なあに、ちょっと仕事に必要なんでね」という言い訳に、ルネもモントルイユ夫人もすっかり騙されていました。が、それから半年もたたない1763年の10月、突然サドは、「パリの妾宅での桁外れな乱行」のかどで牢に放り込まれてしまうのです。
義母と母は、このときはじめて彼が結婚の翌日からパリで密かに娼婦たちと乱行にふけっていた事実を知らされます。家庭ではよき婿でありよき夫。ところが一歩外に出ると、恐るべき性的倒錯者……。まるでジキル氏とハイド氏です。その2つの顔をサドは、しばらく巧みに使い分けていたのでした。
娼婦たちの密告でサドが牢獄に放り込まれると、父伯爵はショックで寝込んでしまいました。もちろんショックを受けたのは、サド自身も同じこと。これまで他人から白い目で見られたことなどない彼が、このときはじめて自分の好む快楽が、社木から罪と呼ばれるものであることを知ったのです。
父や義母の奔走で、このとき幸いにも、サドは15日の拘留ののち自由の身になれましたが、ちょうど3ヵ月の身重だった妻のルネは、この騒ぎのショックで流産してしまいました。けれどその苦しみを乗りこえて、ルネは良妻賢母として生きる決心をしていました。この決意は1790年についにサドと別れるまで変ることなく、彼女は忠実で従順な妻の役をみごとに演じ抜いていくのです。
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1768年4月3日の朝、パリのヴィクトワール広場に、灰色のフロックコートと白いマフにステッキという出立(いでだ)ちのサドがさっそうと馬車から降り立ちました。彼はもの乞いをしている若い女乞食に近づいて、実は女中を探しているのだが、うちで働く気はないかと持ちかけます。女が承知すると彼は女を馬車に乗り込ませ、馬車は牧場の間の道を走って、やがて郊外のアルクイユの街の、サドの別宅の前で停まりました。
サドは女乞食を1階小部屋に通しました。そして急に乱暴な口調で彼女に服を脱げと命じたのです。おびえた女はそれでは話が違うと言いましたが、「言うことをきかないと殺すぞ」と脅されて、無理やり服と下着を剥ぎ取られてしまいました。
そしてサドは突然女を長椅子に腹ばいに押し倒すと、麻縄で手足を長椅子にくくりつけたのです。彼は脇にあった鞭(むち)を手に取ると、いきなり女を力の限り打ちはじめました。女が痛さに金切り声を上げると、「黙らないと殺すぞ」と短剣を突きつけて脅されます。
女は必死で呻(うめ)き声をこらえ、なおもサドは革の鞭で彼女の背や尻を打ち続けます。こらえようとしても呻き声はもれ、女は縄で縛られて自由にならない手や足を動かそうと、必死でもがき続けました。そのうちにサドは息をはずませはじめ、鞭を持つ手の動くがだんだんと激しく早くなります。そうして甲高い叫びを上げたかと思うと、サドはなんとその場で射精したのです。
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鞭で女を打つことで快感をおぼえるという性癖。これはのちにクラフト・エービングが彼の名にちなんで「サディズム」と命名した性的倒錯にほかなりません。それまで曖昧な疑惑に包まれていた彼の異常な性癖が、このスキャンダルによって明るみに出てしまったのです。
とはいえ、彼のサディズムはどちらかというと初歩的なものでした。サドはジル・ド・レやエリザベート・バートリのようにつぎつぎと罪のない者たちを虐殺したわけでもなく、せいぜい女を鞭打ったり縛ったりして、女が恐れおののく表情や涙や哀願、叫び声、血のにじんだ尻を見ているだけで充分だったのです。さしずめ現代なら、巷のS・Mバーとやらで当事者の了解のうえで行われているS・M行為と同じこと。ただしそれが了解済みではなく、誘拐などの手段で調達せねばならなかったところに、サドの弱みがあったのですが。
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マルセイユ事件はラ・コストの城に住むようになったサドが、突然世間を大きく騒がせた事件です。1772年6月半ば、サドは下男のラトゥールを連れて近くのマルセイユにやってきました。下男は街で見かけた若い娼婦に近づいて、自分の主人の遊び相手を探しているんだがいい娘はいないかね、と話し掛けました。「あたしの知りあいでよかったら、何人か集められるわよ」との返事に、話はとんとん拍子にまとまって、翌日、娼婦仲間の家に朝10時に集まることになったのです。
時間になると、娘たちはつぎつぎと集まってきました。マリエット、マリアンヌ、マリアネット、ローズなど、みな若い盛りにピチピチした娘ばかりです。さてそおにやってきたサドは、灰色の燕尾服に絹のチョッキ、羽根飾りつきの帽子、金の握りのついたステッキという、あいかわらずキザな出立ち。これから何かはじまるのかしらと、娘たちは思わず興味津々でした。この分じゃ、いい金儲けになりそうだわ、と密かに胸算用まではじめてしまいます。
部屋に入ると、サドはまずマリアンヌと下男だけをなかに入れて鍵を掛けました。2人を裸にしてベッドに横たわらせ、いきなり娘を鞭で打ちはじめると、もう一方の手で下男のあそこを愛撫しはじめます。そのあいだ、まるで自分が召使いででもあるかのようように下男を「公爵様」と呼んでかしづき、逆に自分を「ラ・フルール(花のこと)と呼ばせる始末。さらにサドは、ういきょうの匂いのするボンボンをポケットから取り出して、マリアンヌにすすめます。実はこれはカンタリスの入ったいわゆる催淫薬なのですが、サドは「何でもない、オナラの出る薬だよ」と口から出まかせを言いました。娘がためらいながら、2、3粒を口に運ぶと、サドは娘をいきなり押し倒して、うしろから責めはじめます。
次にサドはマリアンヌに鞭を渡して、これで自分を打ってくれとたのみました。ちょっとびっくりしたものの、彼女が言われたとおりにサドの尻に力まかせに打ちはじめると、サドは「もっと、もっと!」としだいに興奮してきて、やがて急に呼吸を荒くしたかと思うと、そのままオルガスムに達してしまいました。
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けれどサドはいつまでも、こんなS・Mゲームに興じていたわけではありません。しだいに彼は、何の楽しみもない獄中生活で、自分を唯一熱中させてくれる、書くことの喜びを発見していくのです。
「イメージの向くまま書くことが、不幸を慰められる唯一のときだ」とサドはあるとき書いています。このころ彼はすでにエロティックな空想を頭のなかで駈け巡らせ、密かに執筆計画も立てていました。4年になろうとしていた牢獄生活のあいだで読んだ本の量も膨大で、この知識と空想の集積が、彼の頭のなかで独自の作品に昇華され、せきを切って溢れ出すのも遠いことではないでしょう。
肉体の不調や孤独にめげず、しだいに落ち着きを取り戻しはじめたサドは、だんだんと自分を客観的に見つめながら、腰をすえて書き出せるようになりました。何度かの挫折を通り過ぎ、ようやく彼は作家として生きることを決意するようになったのです。汚辱と苦悩の底をつらぬいて流れ出る作家としての熾烈な決意が、そのころの彼の手紙には感じられます。
「わたしの考え方はわたしの存在や体質と切り離せない関係があるので、それを変えようととは思わない。人が非難するこの考え方こそ、わたしの人生の唯一の慰めで、わたしの牢獄での苦悩をやわらげ、わたしの快楽いっさいを形作っているもので、わたしにとっては人生以上に大切なのだ。自分の道徳や趣味を捨て去れば自由にしてやると言われても、そんなことをしようとは思わない。わたしの道徳や趣味は、わたしのなかで狂信的なほどに成長してしまったのだ!」
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その冬はサドの一生で最も悲惨な冬でした。彼はパリ郊外の薄ぎたない屋根裏部屋で、極貧のうちに厳寒の日々を過ごしたのです。芝居小屋で下働きをして40ルソを得、やっとの思いでケネエ夫人とともにその日暮らしをしていました。
窮状に追い打ちをかけるように、より以上の不運がサドを襲います。1801年、4前に刊行した『美徳の不幸』が風紀潰乱だとして押収され、サドは逮捕されてしまうのです。彼がこれを出版した執政時代は自由な気風が溢れ、好色本がもてはやされていました。が、ナポレオンが天下をとるとそれまでの悦楽的な風潮がすたれて、人々はまたスキャンダルに厳しい態度をとるようになってきたのです。ナポレオンは厳格な言論統制と風紀条例で、言論の世界に圧迫を加え続けたのでした。
こうしてもう60歳を超えていたサドは、生きながら精神病院に葬られることになりました。そしてもう2度と彼は自由の地を踏むことはありませんでした。他の患者たちとともに、なお13年を、生ける屍として生き続けねばならなかったのです。
ケネエ夫人はそんな彼を見捨てることなく、せっせと面会に通ってきました。当時、精神病院で彼を見かけた某作家は言っています。「彼は身動きもできないくらい太っていた。が、彼のやつれた目にはいまだに熱を帯びたものがあり、消えかけた炭火の最後の輝きのように、それが時おりパッと燃え上がるのだった」
1814年、死が近いのを感じたサドは、遺書を書き残しています。最後まで自分に付き添ってくれたケネエ夫人に暑い感謝の言葉を述べ、自分に残るわずかな財産のいっさいを彼女に譲ると述べたうえで、彼は「自分の遺体を何の葬式も行わず、領地であるエペルノン近くのマルメゾンの森に埋めてほしい。そして墓穴の蓋を閉めたら、そのうえに樫の実をまいて墓の跡が地面から隠れるようにしてほしい。自分はすべての人から忘れ去られてしまいたいのだ。ただし最後まで自分を愛し続けてくれた僅かな人々については別だが」と書いています。
現実にいやというほど痛めつけられ、もう神も人間も信じられなくなっていた晩年のサドの孤独がゾッとするほど感じられる言葉です。
けれど結局、この遺言は守られませんでした。ケチで狭い心の持ち主であるサドの長男が葬式いっさいとりしきり、ケネエ夫人夫人に遺産を渡すどころか、サドの残された原稿も、一部は焼かれ、あとは警察に押収されるか門外不出として邸の奥深くしまい込まれました。そしてサドの遺体もマルメゾンには葬られず、シャラント病院附属の墓地に、普通のやり方で埋葬されたのです。墓のうえに小さな十字架が立てられました。総計65ルーブルのささやかな葬式に、いったいどんな人々が集まったかは分かっていません。
あまりにも不遇な作家だったサド。『悪徳の栄え』『ジュスティーヌ』など、キラ星のように輝く名作の数々。けれどそれらの作品を生み出すために、彼があがなわねばならない苦役は、あまりに大きすぎました。それにしても皆さん、不器用でそんな生き方ばかりしてきた彼は、いかにも憎ったらしい「サディズム侯爵」のイメージとは、あまりにもかけ離れていると思われませんか?

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どうでもいい、じじぃの日記。
桐生操著 『眠れぬ夜の恐ろしい話―西洋残酷人物譚』という本に「倒錯の愛に生きた不遇の作家 サド侯爵」というのがある。
サド侯爵の生涯について書かれている。サド侯爵は「サディズム」の生みの親だ。
「女は必死で呻(うめ)き声をこらえ、なおもサドは革の鞭で彼女の背や尻を打ち続けます。こらえようとしても呻き声はもれ、女は縄で縛られて自由にならない手や足を動かそうと、必死でもがき続けました。そのうちにサドは息をはずませはじめ、鞭を持つ手の動くがだんだんと激しく早くなります。そうして甲高い叫びを上げたかと思うと、サドはなんとその場で射精したのです」
ずいぶん、昔になるが『家畜人ヤプー』を読んだことを思い出した。この本はSF・SM小説であるが当時、三島由紀夫寺山修司がこの本を絶賛していたこともあり、夢中になって徹夜で読んだ。
よく、若いうちは苦労しろということを聞く。若い時苦労したことは、後の人生を豊かにするという。
サド侯爵の後半生は、ほとんど牢獄の生活だった。そして、サド侯爵が書いた小説のほとんどが牢獄の中で書かれたものだ。
サドは殺人を犯したわけではなかった。ただちょっと性的倒錯者だった。しかし、若い時の性的倒錯者があの厖大な小説として開花させたのである。
彼は天才だった。ただ、時代より100〜200年、早く出生してしまったのだ。
残酷といえば残酷な話である。