じじぃの「人の死にざま_664_東山・魁夷」

東山魁夷 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E9%AD%81%E5%A4%B7/5767/
東山魁夷生誕100年展 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=U3_QJ0uQxks
緑響く 画像
http://sipoo.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2008/05/01/scan20003.jpg
 画像
http://www2.plala.or.jp/Donna/paint-folda/kaii/michi.jpg
東山魁夷
http://www2.plala.or.jp/Donna/kaii.htm
東山魁夷 ウィキペディアWikipedia) より
東山魁夷(ひがしやまかいい、1908年(明治41年)7月8日-1999年(平成11年)5月6日)は、画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人といわれる。文化勲章受章者。千葉県市川市名誉市民。本名は東山新吉。
【来歴・人物】
船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として横浜市に生まれる。
兵庫県立第二神戸中学校(現兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現東京芸術大学日本画科へ進学。
戦後、1947年の第3回日展で「残照」が特選を得たことが転機となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求した。1950年に発表した「道」は、前方へとまっすぐに伸びる道それだけを描く作品で、単純化を極めた画面構成に新機軸が示されている。北欧、ドイツ、オーストリア、中国にも取材し、次々と精力的に発表された作品は、平明ながら深い精神性をそなえ、幅広い支持を集めた。1960年に東宮御所、1968年に落成した皇居宮殿の障壁画を担当した。
戦後の復員直後から死去するまで暮らしていた千葉県市川市には、自宅に隣接して市川市東山魁夷記念館が開館した。

                                • -

『日本絵画の楽しみ方完全ガイド』 細野正信/監修 池田書店 2007年発行
東山魁夷 『緑響く』 白い馬が暗示するものは幻想か、自らの姿か (一部抜粋しています)
白い馬を描いた作品は、誰もが一度は目にしているだろう。過去に何度も、カレンダーやポスターに使われ、一服の清涼剤のような安らぎを与えてくれる。
1972年、魁夷は突然、白い馬を描き始めた。若葉が水面に映る川のほとり、山深い木々の間、ほの暗い森の中、紅葉の木々の間など、さまざまな風景の中に馬を置いた。
白い馬は、思いがけなく浮かんで消えたイメージ。魁夷の脳裏には、いろいろな風景の中で歩き、たたずみ、ふり返る、そんな白い馬のイメージが次から次に浮かび消えていったという。それが、夢の中の出来事のような18枚の絵になったのだった。
『緑響く』は、その一連の作品の中の一枚だ。緑の木々が規則正しい濃淡を見せながら連なっている。そしてその木々を鮮やかに写す、磨かれた鏡のような湖面、その間をゆっくりと歩む白い馬。それらは見事に溶けあって、見る者を一種不思議な安堵感で包んでくれる。
なぜ、白い馬が魁夷の心をとらえたのか。実は、このシリーズを描く30年ほど前にも、白い馬を好んで描いている。新文展や紀元二千六百年奉祝美術展に出品した、1939年「慈光」や1940年「凪」などがそれだ。やはり白い馬に何か思い入れがあるのだろうか。
この頃の作品を見て見ると、40年代のシリーズとはまったく異なっていることに気がつく。白い馬は大きく描かれ、背景はあまり重要視されていないように見える。また、淡い色調で描かれており、見る者にあまり強い印象を与えなかったといわれている。
そして30年の時を経て、再び登場した白い馬。白い馬は、美しい風景という芸術に溶け込んだ魁夷自信、芸術と自己との融合ではなかったか。白い馬の意味するところを聞いて、魁夷は「心の祈りを表わしている」と語った。

                                • -

東山魁夷 Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E9%AD%81%E5%A4%B7&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=V5gvTqTuMKbymAXBo7nRDA&ved=0CEcQsAQ&biw=983&bih=556