じじぃの「人の死にざま_661_国定・忠」

国定忠治 - あのひと検索 SPYSEE
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浪曲 国定忠治 名月赤城山(1/5)口演;先代広沢虎造 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=NcKHVWlDMe0
名月赤城山(東海林太郎) 元旦.mpg 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=TFSSlpytSQE&feature=related
国定忠治 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
国定忠治は江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上州佐位郡国定村に由来し、本名は長岡忠次郎。
後にも博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として脚色された。講談や映画、新国劇などの演劇の題材となる。
【生涯】
上野国佐位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれる。国定村は赤城山南麓の村で、生業は米麦栽培のほか農間余業として養蚕も行われており、長岡家でも養蚕を行っている。
忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒大前田英五郎の縄張りを受け継ぎ百々村の親分となり、英五郎と敵対し日光例幣使街道間宿境町を拠点とする博徒島村伊三郎と対峙する。天保5年(1834年)、忠治は伊三郎を殺しその縄張りを奪うと、一時関東取締出役の管轄外であった信州へ退去し、上州へ戻ると一家を形成する(『赤城録』では、『水滸伝』に模して日光円蔵ら忠治股肱の子分を紹介している)。
関東取締出役は天保10年に出役の不正を摘発し人員を一新して体制の強化をはかり忠治の捕獲を試みているが、天保13年8月に忠治は道案内(目明し)の三室勘助・太良吉親子を殺害し(三室勘助(中嶋勘助、小斉勘助)は上州小保方村三室(佐波郡東村)の出身。中嶋家は東小保方村の名主を務め、忠治一家の浅次郎は勘助の甥にあたる。勘助は檀那寺である西小保方村の長安寺住職憲海や領主久永氏を相手とした訴訟に敗れると天保12年に隣村の八寸村八斉に移住し、関東取締出役の道案内に転身している。
勘助殺しにより中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行い、忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破り会津へ逃れるが、日光円蔵や浅次郎らの子分を失っている。
忠治は弘化3年(1846年)に上州に帰還するがこのころには中風を患い、嘉永2年(1848年)には跡目を子分の境川安五郎に譲る。
最も重罪である関所破り(碓氷関所(群馬県安中市)を破る)により時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され当地で磔の刑に処せられる。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
国定忠治(くにさだちゅうじ) (1810-1850) 40歳で死亡。 (一部抜粋しています)
嘉永3年7月21日の夜、忠治は妾のお町と寝て、中風を発した。そこで知り合いの田部井の名主の家の土蔵にかくまってもらった。彼は関所破りのお尋ね者であったのだ。
1ヵ月後の8月14日、捕手が踏みこみ、ついに御用弁になり、江戸の小伝場町の大牢に送られた。
この年10月30日には、高野長英が捕方に襲われて自殺している。
12月16日、江戸から唐丸籠(とうまるかご)に入れられて、20日、彼が破った上州大戸の関所に着き、21日、吹くきさらしの寒風の中で磔(はりつけ)になった。14回目の槍で絶命した。
後年、同じ上州に生まれた詩人萩原朔太郎は、忠治の墓を見て歌った。
「見よ此處(ここ)に無用の石
 路傍の笹の風に吹かれて
 無頼の眠りたる墓は立てり」

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