じじぃの「人の生きざま_72_澤地・久枝」

澤地久枝 - あのひと検索 SPYSEE
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澤地久枝さんの話「一人からはじまる」(1/3) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0ec7LxGlr3c
『世代を超えて語り継ぎたい戦争文学』 澤地 久枝 ・ 佐高 信 おっちゃん書房
http://o-shobo.jp/hoby/2010/01/post-108.html
澤地久枝 ウィキペディアWikipedia) より
澤地久枝(さわちひさえ、1930年9月3日 - )は、日本のノンフィクション作家である。東京・青山出身。
【来歴・人物】
幼少時に父親の大工の仕事の関係から旧満州へ移住、1945年、吉林で敗戦を迎え1年間の難民生活の後に日本に引き揚げた。
1949年、旧制向丘高女(現・東京都立向丘高等学校)卒業と同時に中央公論社に入社し同社経理部で働きながら早稲田大学第二文学部に学ぶ。在学中、学生運動を通じて知り合った男性と結婚。早大二文卒業後、優れた能力を買われて『婦人公論』編集部へ移った。将来の編集長と目されていたが、既婚の身でありながら有馬頼義との恋愛事件を起こし、1963年に編集次長を最後に退社。このとき夫と離婚し、退職金をはたいて老母のためにアパートを建て、身一つで有馬と再婚するつもりだったが、この段階で有馬との仲が破綻。時期を同じくして持病の心臓疾患が再発し、辛酸をなめた。
その後、五味川純平の資料助手として『戦争と人間』の脚注を担当。1972年の『妻たちの二・二六事件』以後、本格的に執筆を開始し、『密約』(原案は西山事件)、『烙印の女たち』、『あなたに似たひと』、『昭和・遠い日近いひと』、『わが人生の案内人』、『道づれは好奇心』などを執筆。
『火はわが胸中にあり』で第5回日本ノンフィクション賞、『昭和史のおんな』で第41回文藝春秋読者賞受賞。
『滄海よ眠れ』『記録 ミッドウェー海戦』で第34回菊池寛賞を受賞した。この2作品ではミッドウェー海戦の日米双方の全戦没者を特定するという前例のない作業に取り組み、完成させている。また、『滄海よ眠れ』執筆の副産物として、現存しないといわれていたミッドウェー海戦日本海軍による戦闘詳報(「第一航空艦隊戦闘詳報」)の写しが残っていることを確認し、半藤一利の助力も得てこの海戦の経過に関する議論(いわゆる「運命の5分間」やその遠因となった兵装転換指示)に一石を投じることになった。
『雪はよごれていた』(1988年)では二・二六事件軍法会議の裁判官であった匂坂春平の残した裁判記録をもとに、事件をめぐる陸軍内部の駆け引きを描き出している。
近年は「九条の会」の発起人の一人となり護憲派の立場で講演をするなど、政治的な活動が目立っている。一方でこのような、戦中・戦後秘史に光を当てる活動を快く思わない勢力からは「アカ」「左翼作家」の罵声を浴びせられている。

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『最後の日本人』 斎藤明美/著 清流出版 2009年発行
澤地久枝(作家) 女にして"正義漢が似合う人" (一部抜粋しています)
「私は『遠っ走りのチャー坊』と言われたくらい、始終一人でどこかへ行っては迷子になる子供で、やっと伝い歩きを初めてゼロ歳の頃、親が油断した隙に、2、3軒先のよその家に入り込んで、両手にいっぱいドロップを持って口にも入れて、その家の上がり框(がまち)から落っこちて『ギャッ』って泣いたんだって。ドロップはそのお宅のだから、窃盗ね(笑)」
いかにも無邪気な、しかしその後の澤地さんの行動力を思わせるエピソードである。
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満州で敗戦を迎え1年後に日本の地を踏むまで、思春期の長女・久枝さんが体験した日々は壮絶である。だが、それは命がけの日々ではあっても、少女を絶望させはしなかった。
「ほんとに無残な生活でした。でもその難民生活の中で、私は何が起きてもどうにかして生きるために、ちゃんと働ける人間になったのね」
日本に帰ってから、父親が建てた段ボールに焼けトタンを張っただけの家から中央公論社に通い、早稲田大学の夜間部で勉強した時も、絶望どころか溌剌(はつらつ)と生きた。父親ががんのために51歳の若さで命をとられる時も、「後のことは私が引き受けるから」と、残された病弱な母親と弟妹のために自分が柱になることを心の内で父に誓うのだ。
そんな女性を、生涯で唯一度、自ら死を考えるほど絶望させたのは、一人の"人間"の仕業だった。編集者として担当した妻子ある作家からの執拗な求愛。結果的に短い間だったにせよ、30歳になったばかりの澤地さんは遂に逃げ切れず、その一方的な愛情に押し切られた。
私は人間が幼いせいか、男女の恋愛ごときにはいたって冷淡で、どんな特殊な事情があったとしても、所詮男女の問題はフィフティ・フィフティであるという考えだ。
だがたとえフィフティ・フィフティだとしても、そこには"人として"最低限のルールがなくてはならない。澤地さんの不幸は、相手にそのルールがなかったことだ。それは、「もう完全に他人になっていて、あとは(離婚)手続きの問題だ」と言っていた妻と遂に別れなかったことでもなく、澤地さんの前にも後にも女性がいたことでもない。澤地さんが自分のもとを離れた直後にその"出来事"を明らかにその女性が澤地さんとわかる形で作品として発表したことである。そして澤地さんが出版社を辞してまもなく、自身の結婚何十年かの祝賀会を澤地さんが身を置いた雑誌のグラビアに載せ、夫婦で対談し、その中で澤地さんらしき女性を話題にのぼらせて語ったことである。
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「男でも女でもウソをついたり非常に悪いことをしたということは、後になって赤裸々にわかることがあるけれども、でもある瞬間、男も女も見てはならない夢を見るということが、私は、あるだろうと思うの」
たぶんこの時私は、「大人になったらわかるよ」とよく映画か何かの中で大人が子供に言い聞かせている、その子供のような顔をしていたのじゃないかと、今思う。
「私は仕事で出入りしてた関係だから編集者の立場ですから、先方の家庭の状況も、家庭ができるまでのいきさつも全部知ってたから、(その作家の求愛から)逃げて逃げて逃げ続けたんですよ。でも、そうねぇ、結局私がお節介なんだな。執筆に行き詰まった睡眠薬中毒禍の作家から『助けてくれ』って言われたら、『あなたは勝手に死になさい』とは言えないところが、私にはあるのね。その人の担当者ではあるし、毎月原稿は書いてもらわなきゃならないし、それがとっても苦しかったわ」
漸く私は腑に落ちた気がした。澤地さんは編集者であり過ぎたのだ。ただの男と女として出逢っていたら、逃げ切れたに違いない。
私には重たい恋愛の経験もないし、そこまで編集者であろうとした経験もない。ただ、健康も仕事も失い、信じた相手に裏切られるという八方塞がりの穴に落ちた上で、そこから立ち上がって今を得た澤地久枝という作家の、あまりに堪え忍ぶ力に、呆然とするばかりだ。
「強いですねぇ」、溜息と一緒に出た。
「強いねぇ」
澤地さんは、ちょっと照れてでもいるように微笑んだ。
「でもね」と、急に調子を変えて言った。
「私はね、案外暢気なところがあるのよね。もうダメっと思ってフッと頭振るみたいにして別の道を自分で歩き出すと、わりとあっけらかんとしてる。それは私のいい性格だと思う。引きずらないの」
私がその言葉をかみ締めていると、意外なことを澤地さんが言った。
「これは"最後の日本人"というタイトルだけど、私は日本人としてはちょっとはみ出してると思うのよ。4歳から16歳まで満州にいたから、桜も嫌い、お寺とか名所とか人が喜んで行く所も嫌い。郷愁みたいなものはずうっと中国にあったわけです。だからつい最近まで中国に対する親近感のほうが強かったわね。スケールが違うというか、大陸的というのかなぁ。のんびりしてるもん。日本の人たちは何てこせこせしているんだろうと思った。京都や奈良にも近年になって遊びに行くようになったの。十何年か前、広島に講演に行く時、車の中から安芸の宮島を見て、『あら、鳥居が海に沈んでる』と言って周りの人を呆れさせたくらいなのよ(笑)。私はおよそ日本人の女じゃないような気がするけど、傍若無人なところとか、怖がらないところとか」
奈良や京都がなにほどか。
私は澤地さんのこの言葉が好きだ。
「黙って辛さに耐えている人のことを書き残したいというのは、一種の代償行為みたいなものね。たぶん私の両親も、そして私自身も、歴史の中に埋もれて死んでいく側ですから」

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