じじぃの「人の生きざま_71_岩谷・時」

作詞家の岩谷時子さん死去 「愛の讃歌」「恋の季節 2013年10月28日 朝日新聞デジタル
日本レコード大賞を受けた「いいじゃないの幸せならば」(佐良直美)など数々のヒット曲で知られた作詞家で文化功労者岩谷時子(いわたに・ときこ、本名トキ子)さんが25日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。97歳だった。通夜と葬儀は親族のみで行う。後日しのぶ会を開く予定。
http://www.asahi.com/articles/TKY201310280099.html
岩谷時子 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%B2%A9%E8%B0%B7%E6%99%82%E5%AD%90/34290/
ろくでなし 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=eliPMy3yLbc&feature=related
Minako Honda 本田美奈子. Message From Tokiko Iwatani 岩谷時子 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=V3QfNT9JaLk
マイ・ウェイ(岩谷 時子訳詞)
http://www013.upp.so-net.ne.jp/chorus_at_home/songs/myway/myway.htm
岩谷時子 ウィキペディアWikipedia)より
岩谷時子(いわたにときこ、1916年(大正5年)3月28日 - 2013年(平成25年)10月25日)は、兵庫県西宮市出身の日本の作詞家、翻訳家。歌手・越路吹雪のマネージャーを務めたことでも知られる。
越路吹雪と歩んだ半生】
・1916年京城(現在のソウル特別市)生まれ。5歳の頃に西宮市に移住。西宮市立安井小学校、西宮市立西宮高等学校を経て神戸女学院大学に進学。1939年神戸女学院大学部英文科卒業後、宝塚歌劇団出版部に就職。月刊誌『歌劇』の編集長を務めた。
・そうした中、偶然編集部にやってきた当時15歳の越路吹雪と出会う。二人は意気投合し、越路の相談相手となる。越路が宝塚を退団して歌手になりたいと相談したとき、岩谷も退職を決意。共に上京し、越路の付き人を務めた。
・1951年から1963年までは東宝文芸部に所属。会社員として働く傍ら越路をサポートし、越路が死去するまでの約30年間、マネージャーとして強い信頼関係で支え続けた。しかし、あくまで「越路が好きだから支えていた」という岩谷は、越路が亡くなるまでマネジメント料としての報酬は1円も受け取らなかった。(※第29回菊田一夫演劇賞授賞式において、岩谷時子を演じた高畑淳子が証言)
【作詞家として】
・マネージャーとして活動する一方で、越路が歌うシャンソンの訳詞を手掛けたのきっかけとして作詞家・訳詞家としても歩み始める。ザ・ピーナッツ恋のバカンス』や加山雄三『君といつまでも』、ピンキーとキラーズ恋の季節』、園まり『逢いたくて逢いたくて』など数多くのヒット曲を生み出してきた。
・一方、オリジナルの詞にとらわれず独自の解釈で詞を当てることもある。例としては、エディット・ピアフが歌った「愛の讃歌」は元の歌詞が「愛のためなら盗みでもなんでもする」という背徳的な内容であるのに対し、岩谷訳詞では一途な愛を貫くという賛歌となっている。美輪明宏岩谷時子にそのことを訊ねたエピソードがNHK人間講座美輪明宏愛と美の法則(2005年3月21日)」で放映された。

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『最後の日本人』 斎藤明美/著 清流出版 2009年発行
岩谷時子(作詞家) ただ一人の人に無償の愛を捧げた人 (一部抜粋しています)
その越路吹雪に、なくてはならない人がいた。作詞家であり、マネージャーの岩谷時子である。越路が死んだ時、誰もが思った。岩谷さんは大丈夫だろうかと。40年、文字通り二人三脚で生きてきた人だった。
――越路さんが無くなって26年(※ 2006年当時)になろうとしていますが、いまだに辛くて写真が見られないと伺いましたが・・・・。
「それはやっぱり・・・・。一生しょうがないんじゃないでしょうか。子供を失った母親と同じでね(笑)」
ひどく寂しい笑顔だった。
以前、越路の写真集でその姿を見て、細くて小柄な人だとは知っていた。だが越路より8歳年上の岩谷さんをこうして目の前にすると、やはり思った以上に小さく、質問などするのが申し訳ないほど、何か消え入りそうなほど、静かで控えめな人である。
「コーちゃんと初めて会ったのは、彼女が宝塚音楽学校から歌劇団に入った頃です。ちょうど劇団の稽古場の下が私のいる編集部で、確か、サインの字をどんな形にしたらいいか相談に来たのが最初でした。もちろん他の方も来ていましたけど、なぜか彼女と気が合ったんですね」
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戦争中、団員のほとんどが実家に帰ったり疎開したなか、それまでも「おばちゃん、おばちゃん」と岩谷さんの母親をしたって食事に来ていた越路はそのまま寄宿するようになる。
2人を強く結びつけたのは、越路が歌劇団を退団して東宝の専属になり、上京する時である。
小林一三先生(宝塚少女劇団を創設した関西経済界の実力者)が何かおっしゃって下さったのかな。女の子を1人で東京にやるのは心配だから、誰か付いていったほうがいいって。私が越路さんと親しかったし、小林先生の所にもよく原稿の校正を見て頂きに行ったりしていましたから、こいつなら大丈夫だろうと思われたんじゃないですか」
越路は東宝映画や東宝ミュージカルに出演。やがて、ライフワークとなる1ヵ月のロングリサイタルを始めることになるのだ。
そして越路の代表曲になったばかりでなく、日本のシャンソンブームの火付け役ともなったエディット・ピアフの『愛の賛歌』。ステージの最後はいつもこの曲だった。前奏が始まると、客席から一層大きな拍手が起こる。「たった今始まったと思ったら、もうお別れ・・・・」、ちょっとはにかんだように呟くコーちゃんのあの声が今でも私の耳に残っている。その曲、その、越路を作ったとも言える『愛の賛歌』に訳詞をつけたのが、岩谷さんである。
「昭和30年頃だったでしょうか。まだ越路さんが日劇の歌謡ショーによく出させてもらっていた頃ですね。ある日、トリ(最後に出演する人)を歌われる予定だった先輩歌手が急に声が出なくなったと連絡が入ったんです。それで越路さんが急遽トリを歌わせてもらうことになったの。ショーの4日前でした。何を歌ったらいいだろうということになった時、越路さんが『愛の賛歌』がいいと言い出して。ちょうどその少し前に越路さんは本場のシャンソンが聴きたいからパリに行ったばかりで、ピアフの『愛の賛歌』を聴いてとても感激してたんです。そしたら同じ頃パリにいらした黛敏郎さんがその時のショーでご一緒で、『あ、あれ、いいね』と。でもいいねって言ったってフランス語でしょう。楽譜は黛さんが持ってらっしゃいましたけど、歌詞の意味さえわからない。困っちゃたんですね。みんな。当時は訳詞家なんていなかったんです。それで頭を悩ませていたら、黛さんの母様がフランス語がおできになると。それですぐにお願いして、一晩で意味だけ直訳して頂いたんです。でもそのままじゃ歌えないし・・・・。越路さんと黛さんが『あなたしかいないじゃない』って、私に。フランス語の歌詞はとても悲惨な物語なんです。でもフィナーレでそんな歌を歌うわけにはいかないでしょう。作り直さなきゃいけない。そしたら越路さんが『メロディを聴いて、出てきた言葉で自由に書いてよ』って言うんです」
「あなたの燃える手で
 あたしを抱きしめて
 ただ2人だけで 生きていたいの
 ただ命の限り
 あたしは愛したい
 命の限りに あなたを愛するの」
「初めて音に乗せて越路さんが黛さんのピアノで歌った時、2人がピアノの傍で肩組んで笑ってるのね。私が『なんで笑ってるの?』って言ったら、『何も知らないからこんな詞が書けるんだよね』って。人をバカにして(笑)。本当に恋をして夜な夜な遊んでるような人だったらあそこまで正面切って書けないというところを、私が平気でペラペラ書いているから、恋多き方たちには可笑しかったのね」
岩谷版『愛の賛歌』は、大喝采を浴びた。そして、日本で『愛の賛歌』と言えば、越路吹雪になった。
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越路吹雪岩谷時子を知る業界の人間はみな知っている。岩谷さんが越路から一切給料をもらっていなかったことを。越路のマネージャーをしていても、東宝の社員だった時代は東宝から給料を、東宝を退社した後は作詞家として一家を成した。この人の作詞は越路の歌だけではない。加山雄三の『君といつまでも』『お嫁においで』『旅人よ』『ぼくの妹に』、ザ・ピーナッツの『恋のバカンス』『ウナ・セラ・ディ東京』、島倉千代子『ほんきかしら』、園まり『逢いたくて逢いたくて』、ピンキーとキラーズ恋の季節』、佐良直美いいじゃないの幸せならば』、布施明『サインはV』、沢たまき『ベッドで煙草を吸わないで』・・・・。
「越路さんの親族は、私と母(父親は岩谷さんが24歳の時、他界)が越路さんに食べさせてもらっていると思っていらしたのね」
芸能界が醜いのではなく、人間という生き物そのものが本来、醜いのかもしれない。だが、その誰しもが持つ醜さをいかに浄化し、賢明に清潔に生きていくか。そこに人間の価値があるのではないか。
越路吹雪が宝塚を出て自らの道を模索している時も、恋をしている間も、結婚してからも。病に倒れた後も、岩谷時子は常に変わらぬ、溢れるような逢い上で越路を包み続けた。「時子さんは、私に威張っていたいから、マネージャー料をとらないんでしょう、ちゃんととってよ。私だって言いたいことも言えないじゃないの」、越路は機嫌が悪い時、決まってこう言ったという。「その時が一番辛かった」と岩谷さんは言う。だが作詞で食べていかれるようになった時、決心したそうだ。
「ひとりよがりな考え方かもしれませんけれど、越路さんが舞台に専念して、華やかな女優としていつまでも花咲いてもらうために、共存共栄でいこうと思ったんです」
越路の甲甲斐な買いっぷりは有名だった。一度に100万円以上使うのはザラだった。カードを使うことを覚えてからは、「これで買えるのよね」と嬉々として買いまくり、それを惜しげもなく友人や知人に与えた。そのカードが岩谷さんのものだったことを越路は最後まで知らなかった。越路吹雪とは、そういう人だった。子供のように無邪気で、世間知らずで、ステージの上だけが、自分が自分でいられる世界だったのだ。
――どう見ても岩谷さんは芸能界に向いていらっしゃる方には思えないんですが、越路さんのマネージャーをやめようと考えたことはないんですか?
「ないです。『死ぬまでやってくれるよね』っていつも言ってましたから。悪いコですよ(笑)」
越路吹雪は幸せな人である。これほど愛されて。

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岩谷時子 Google 検索
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