じじぃの「人の死にざま_648_杉浦・忠」

杉浦忠 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E5%BF%A0/5530/
昭和33・34年日本シリーズ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=hTji4PKQ8_M
杉浦忠 - ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9596038
杉浦忠 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
杉浦忠(1935年(昭和10年)9月17日-2001年(平成13年)11月11日)は、愛知県出身のプロ野球選手・指導者・監督、野球解説者。
【経歴】
挙母高校(現在の豊田西高校)から立教大学へ入学。大学では同期の長嶋茂雄読売ジャイアンツ〔以下、巨人〕)、本屋敷錦吾(阪急ブレーブス)と三人で「立教三羽ガラス」と呼ばれた。
東京六大学野球通算36勝(立教OBとして最多)の大半を占める28勝は、フォーム変更後の2年間で挙げたものである。早大相手にノーヒットノーランも達成した。
1958年、南海ホークスに入団。入団に際しては、南海の主力で大学の先輩でもある大沢啓二から少なからぬ額の栄養費を長嶋と共に受け取っていたが、南海の鶴岡一人監督に「僕がそんな男に見えますか?」と啖呵を切ったというエピソードと共に、翻意して巨人入りした長嶋に対し義理堅く南海入りした杉浦との対比が未だに語り草になっている。
入団後は新人ながら開幕投手を務め、東映を相手に勝利投手となる。1年目は27勝を挙げて新人王を獲得。2年目の1959年は38勝してわずか4敗(勝率9割5厘)という成績で南海のリーグ優勝に貢献し、シーズンMVP(投手5冠)。迎えた日本シリーズでは巨人相手に第1戦から第4戦まで血豆をおして4連投して4連勝の大活躍で南海を初の日本一に導き、シリーズMVPに輝いた。このとき記者に囲まれた杉浦は「一人になったら、嬉しさがこみ上げてくるでしょう」と言ったつもりだったが「一人になって泣きたい」という言葉が一人歩きしたと、自叙伝「僕の愛した野球」で明かしている。
現役引退後は、毎日放送の解説者を経て、立教の大先輩西本幸雄に請われて近鉄バファローズの投手コーチに就任(1974年〜1977年)。その後再び毎日放送の解説者を務めた。
2001年よりプロ野球マスターズリーグ大阪ロマンズのヘッドコーチに就任。3試合のみ代理監督を務めた。2001年11月11日、大阪ロマンズの遠征先で宿泊していた札幌市内のホテルで急性心筋梗塞により急逝した。享年66。
杉浦の功績を称え、マスターズリーグの最優秀投手に与えられる「杉浦賞」に名を冠している。

                              • -

文藝春秋 2010年1月号 昭和の肉声 いま蘇る時代の蠢動
昭和34年 一人になって泣きたい  杉浦忠(すぎうらただし) (一部抜粋しています)
昭和34年10月、日本シリーズ南海ホークス読売巨人軍に4連勝し、初の日本一の座に就き、MVPには4連投したエースの杉浦忠が選ばれた。
立教大学から南海に入団した杉浦は当時2年目。この年はシーズンで38勝4敗、日本シリーズでは大学の同級生でもある長嶋茂雄を擁する巨人を相手に、時には右手の指にできたマメから血を流しながらの力投だった。
試合後は普段感情を表に出さない杉浦にしては珍しく、涙をこらえながらインタビューに答えた。
――一番苦しかった試合は・・・・
「全部ですね。一試合ごととにかく全力を注ぎ込んだ。とくにきょうは一点差だったんでね。それを守り通すのに苦心した」
――一指はどうなんです。もう見せてもらっていいのじゃない。
(しばらくじっと考えながら・・・・)「一、二戦の時が一番つらかった。痛んでね。今日もバンソウイコウをはって・・・・」
――一調子は・・・・
「1回戦から順を追って良くなった。今日がまあこのシリーズを通じて一番良かった」
――一勝利の実感は・・・・
「まだわからないなあ。試合が終わった時、一人にしてほしかった。一人になって思いきり泣いてみたかった。一人になった時に初めて勝ったという気持ちを味わえるのだと思う」

                              • -

杉浦忠 Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E6%9D%89%E6%B5%A6%E5%BF%A0&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=tvMTTvOQD4WdmQW2_bDxBQ&ved=0CC0QsAQ&biw=922&bih=539