じじぃの「人の死にざま_646_野村・胡」

野村胡堂 - あのひと検索 SPYSEE
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舟木一夫銭形平次 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=gmYVMuaZWIM&feature=related
野村胡堂・あらえびす記念館公式ホームページ
http://kodo.or.tv/kodo/index.html
知ってるつもり?!
2001/5/13放送 銭形平次 〜時代劇のヒーローの知られざる心〜
http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/010513.html
野村胡堂 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
野村胡堂は、日本の小説家・作家・音楽評論家。本名:野村長一。『銭形平次捕物控』の作者として知られる。娘は作家の松田瓊子。
【経歴】
・1882年 - 岩手県紫波郡彦部村(現在の紫波町)に農家の次男として生まれる。
・1907年 - 第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学するが、学資が続かず退学し、『報知新聞』を発行する報知社に入社して政治部に配属された。同紙に人物評論欄「人類館」を連載し、このとき「胡堂」を号とした。また、「あらえびす」の筆名でレコード評論等も執筆した。社会部夕刊主任、社会部長、調査部長兼学芸部長、編集局相談役を歴任。
・1931年 - 文藝春秋発行の『文藝春秋オール讀物號』創刊号に捕物帳の執筆を依頼され、銭形平次を主人公にした「金色の処女」を発表、『銭形平次捕物控』の第1作目であった。これ以降、第二次大戦を挟んで1957年までの26年間、長編・短編あわせて383編を書いた。
・1963年2月 - 死の直前、私財のソニー株約1億円を基金に財団法人野村学芸財団を設立。同財団は、経済面で学業継続が困難に学生等への奨学金の交付を目的のひとつとしており、これは学資の問題で学業を断念した胡堂の経験が背景になっている。
・1963年4月14日 - 肺炎のため死去。1970年に日本作家クラブによって銭形平次の記念碑が神田明神境内に建立された。
銭形平次 捕物控】
銭形平次捕物控』は、野村胡堂による小説、またはこの小説を基にした映画、テレビ時代劇、舞台作品。翻案作品ではタイトルを『銭形平次』とするものもある。
神田明神下に住む岡っ引の平次(通称 銭形平次)が、子分の八五郎(通称:ガラッ八)と共に卓越した推理力と寛永通宝による「投げ銭」を駆使し、事件を鮮やかに解決していく。
岡本綺堂『半七捕物帳』と共に最も有名な捕物帳であり、代表的な時代劇の一つでもある。
平次は架空の人物であるが、設定から神田明神境内に銭形平次の碑が建立されており、銭形平次の顔出し看板も設置されている。

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野村胡堂 雨ニモマケズ 2011.6.30 MSN産経ニュース
■「呑気(のんき)な明るいものを書こうということが私の主眼だった」(野村胡堂
《「銭形平次」を書き始めて、もう二十七年になる。自分が生きている間は書きつづけてゆくつもりでいた》
昭和32(1957)年晩夏に発表された、野村胡堂の随筆「平次と生きた二十七年−筆を折るの弁」の書き出しである。断筆を促したのは数年来の眼病の悪化だった。《二度、三度と手術をし、どうにかして書きつづけたいと努力してみたが、(中略)老体のこと故回復もむずかしかつたのだろう、最近ではすつかり気力も失つてしまった》と続けられている。
胡堂は、75歳になろうとしていた。
「主人公は武士にしたくない。一介の目明しにする。私は南部領の百姓の子で三代前の祖先は百姓一揆に加わっているはずである。先祖が人を殺した手柄で、三百年の後までも無駄飯をくっている階級が、どうも私は好きになれないのだ」
胡堂は別の随筆で平次の設定と背景についてこう明かしている。でも作品そのものは、冒頭に引用した断筆記の一文にあるように、だれでも楽しめるものにする。苦心談や芸術家ぶることをきらい、「鼻歌をうたって『平次』を執筆している」とうそぶいていた逸話と同様のプロ意識と美意識がうかがえる。
6年後、胡堂は逝く。生前、彼は貴重な書籍や絵画、レコードなどの収集品を寄付。また、私財で設立した財団はいまも、国内外の学生や研究者を支援し続けている。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110630/art11063003040000-n1.htm
『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
野村胡堂(のむらこどう) (1882-1963) 81歳で死亡。 (一部抜粋しています)
胡堂が『銭形平次捕物控』を書き出したのは意外におそく、昭和6年オール讀物」創刊号に第1話を発表したのは、49歳のときである。それ以来昭和32年まで26年間に、長短383篇の平次物を書いた。
その第1話「金色の処女」は3代将軍家光の時代とあるのに、だんだん文化文政の世としか思えない内容になっていったのは愉快である。
この怖るべき生産力をもつ胡堂も、昭和20年終わりごろから、馬琴と同様、老人性白内障を患って執筆が困難となり、32年、75歳のとき最後の銭形平次を発表したあと筆をたち、38年、私財1億円を投じて育英奨学金を目的とする野村学芸財団を設立したのち、4月14日、大往生をとげた。直接の死因は肺炎であった。
遺言「思い残すことはない。満足だ」
ガン、脳溢血、心筋疾患をまぬがれた高齢者は結局肺炎で死亡することが多い。

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