じじぃの「人の生きざま_69_立花・隆」

立花隆 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E9%9A%86/7818/
対談! 立花隆 "大学生ってこれでいいのか?!" 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=KY9J7pQs_ak
NHK 2014 臨死体験脳科学 : 立花 隆の探求の旅 1/2 動画 Dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/x26050g_nhk-2014-%E8%87%A8%E6%AD%BB%E4%BD%93%E9%A8%93-%E3%81%A8-%E8%84%B3%E7%A7%91%E5%AD%A6-%E7%AB%8B%E8%8A%B1-%E9%9A%86-%E3%81%AE-%E6%8E%A2%E6%B1%82%E3%81%AE%E6%97%85-1-2_tech
宇宙からの帰還〜立花隆
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/bookstand17.html
シェ・タチバナ 立花隆公式サイト
http://chez.tachibanaseminar.org/
立花隆 ウィキペディアWikipedia)より
立花隆(たちばなたかし、本名:橘隆志 1940年5月28日 - )は、日本のジャーナリスト・ノンフィクション作家・評論家。1974年11月の「田中角栄研究〜その金脈と人脈」(文藝春秋』)では首相の犯罪を暴き社会に衝撃を与えた。人文、社会、科学など、その活動範囲は広い。
【来歴】
・1940年 長崎県長崎市に生まれる。父は長崎の女学校教師で後に編集者を務め、母は羽仁もと子の信奉者で、クリスチャンの家庭。
・1959年(昭和34年) 理系志望であったが色弱のために諦め、東京大学文科二類へ入学。在学中は小説や詩も書き、イギリスで開かれた反核会議にも参加。卒業論文はフランスの哲学者メーヌ・ド・ビラン。
・1968年 「立花隆」のペンネームで文藝春秋増刊号「素手でのし上がった男たち」を発表。『諸君!』の初代編集長田中健五(のちの文藝春秋編集長)との交友が後の「角栄研究」に繋がる。
・1974年(昭和49年) 『文藝春秋』に「田中角栄研究〜その金脈と人脈」を発表。資料を駆使し、多人数による取材に裏打ちされた記事は大きな反響を呼び、田中退陣のきっかけを作ったとされる。
・1976年(昭和51年)には『文藝春秋』に『日本共産党の研究』を連載。これに対して党側が組織的な反立花キャンペーンを展開して反論し、大論争に発展する。また、「総合商社」、「農協」、「中核・革マル」、脳死問題など巨大な権力、組織の徹底究明のジャーナリズム活動を行う。政治関係の記事を執筆する一方で、『諸君!』時代に書いていたサイエンス関係のテーマにも手を広げ、1981年には『中央公論』に「宇宙からの帰還」を発表。平凡社『アニマ』に連載された「サル学の現在」、ノーベル賞受賞者利根川進との対談『精神と物質』、『科学朝日』に連載された「サイエンス・ナウ」「電脳進化論」「脳を究める」、など数多くのテーマを手がける。また、NHKやTBSなどにおいてドキュメンタリー番組制作にも携わり、連動した臨死体験などの著作もある。これらの業績で1983年に菊池寛賞、1998年に司馬遼太郎賞をそれぞれ受賞。
・1995年アニメ映画「耳をすませば」で主人公の父親役を演じ作品の話題作りに一役買った。東京大学先端科学技術研究センター客員教授に就任。
・1996年 - 1998年には、東京大学教養学部で「立花ゼミ」を主催。ゼミは2005年に再開され、現在も続いている。
・2007年 東京大学大学院情報学環特任教授、立教大学大学院特任教授に就任。同年12月に膀胱がんの手術を受け、『文藝春秋』(2008年4月号)に手記「僕はがんを手術した」を発表。

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立花隆先生、かなりヘンですよ 「教養のない東大生」からの挑戦状』 谷田 和一郎/著 洋泉社 2001年発行
立花隆はなぜ批判されない? (一部抜粋しています)
立花氏はなぜ批判の対象にならないのか。『噂の真相』誌などで、オカルト的と批判されたことはあるが、それほど大きく取り上げられることはない。また、学術的に批判された例は、確認できる範囲では、佐藤進京都大学名誉教授の『立花隆の無知蒙昧を衝く』(社会評論社、2000年)だけである。この本は、とても意義のある1冊だと思われるが、失礼な言い方をお許し願えれば、問題としている点の知的レベルが高すぎて、立花氏の抱える欠陥をつかみ損ねている感がある。立花氏にはそれほどの深い学識はない。レベルを下げて批判しなければ、残念ながら立花氏自身の問題ははっきりしてこないだろう。
そして、立花氏は、この本に対して何の反論もせず、黙殺している。「一切の論戦を避けて通るという生き方も可能は可能ですが、そういう人には、それだけの人生しかありません」(『脳を鍛える』)と言っておきながら、
なぜ、立花氏は批判にさらされないのか。
まず、1つには、圧倒的な過去の実績がある。やはり、「ロッキード裁判」における立花氏の功績が、後々のイメージを作り出しているところが大きい。
また、内容の面でも反対しにくい巧妙な展開になっている。
立花氏は、ほとんど何の根拠もなく、感情的な口調で官僚・政治家を批判する。その大衆迎合的でわかりやすい批判が、人気を得ている一因でもある。そして、文脈に合わせて自分に都合のよい主張をするため、立花氏の主張は陳腐なものとなり、自己矛盾をきたすことになるのだが、逆に多くの人が引用しやすい言葉になっているのも事実である。そのような具体的でない俗受けする批判はカタルシスを与える一方で、それ以上の深い洞察を妨げていき、立花氏の言葉を借りれば、その問題について「本質的な理解に至らない」ままで終わる。
また、場当たり的な批判が引き起こす自己矛盾は、立花氏の考え方をわかりにくいものにしているが、逆にいうと、考え方がわかりにくいほど、立場が明確でないほど、批判はしにくくなる。
そして、その資質はともかくとして重要な科学啓蒙家の一人であることは間違いない。現在、最先端の科学をわかりやすく紹介するという仕事をしている人は少ない。立花氏は、その意味では貴重な存在ではある。

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文藝春秋 2009年10月号
尿道があぶない! 評論家 立花隆 (一部抜粋しています)
心臓の冠動脈にステントを入れた。ステントというのは、細いステンレスの金網で作られた円筒である。冠動脈が動脈硬化によって狭窄をきたしており、このまま放っておくと遠からず狭心症から心筋梗塞にいたる確率がきわめて高いと診断され、場合によっては突然死にいたる可能性もあると診断されたので、狭窄部分にステントを入れて血流を確保したのである。なにしろ、ただの狭窄ではなかった。造影剤を入れて検査したところ、主な冠動脈3本のうち1本は90%狭窄、もう1本が75%狭窄をきたしているのがわかった。90%狭窄のほうは本当に見るからに細くなっており、かろうじてつながっているという感じだった。何が狭窄を起こしたのか。動脈硬化がもたらした病変部にカルシウムが沈着し、それが石灰化したのだ。石灰化部分はCTで白く映るからそれがハッキリわかった。はじめは心臓にカテーテルを入れての2泊3日の検査入院のつもりだったのに、検査結果がハッキリ出たところで、医者からこの際、一挙にステントを入れる手術までやったほうがいいとすすめられて、そうしたのである。
手術といっても、開胸したわけではない。すべては手首からカテーテルを入れておこなうカテーテル心臓手術なのだ。しかもこの手術、心臓外科が行うのではない。循環器内科で内科医が行う施術である。かっては、心臓の血管に検査用のカテーテルを入れることさえとんでもないことといわれていたのに、いまや、カテーテルの先にバルーンを入れて、通りの悪い血管をふくらませたり、ステントを入れてそれを留置したりといった治療が日常茶飯に行われている。それどころか、ミクロのダイアモンドカッター付きのローターを超高速回転させて石灰化部分を削りとったり、エキシマレーザー光線で焼き切ったりといったことすら行われている。しかもこのカテーテル手術、全身麻酔でなくカテーテルを入れる部分の局所麻酔だけで行われるから、術後の回復が早い。手術の翌日には歩いて退院できる(私もそうだった)。麻酔をしないから、手術の経過を全部知ることができる。私の場合、バルーンを入れて、狭窄部をふくらませるところからはじめるのだが、私の動脈は、相当硬化がすすんでいたそうで、徐々に圧を高めていって、最終的には20気圧以上の圧を加えたので、「そんなに圧を高めて大丈夫か?」とヒヤヒヤした。
この手術、本当に驚異の手術としかいいようがない手術で、詳細を書きはじめるときりがないが、手術の次の日から私は大学で授業をはじめられた。1ヵ月後には海外取材に出かけ、丸1ヵ月間、毎日が移動の連続という強行取材をしても何も問題もなかった。

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文藝春秋 2011年7月号
現代のグスコーブドリ 評論家 立花隆 (一部抜粋しています)
私は本郷菊坂の近所に住んでいる。久しぶりに菊坂のあたりを散歩したら、その辺があまりに変貌していたのにびっくりした。
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樋口一葉旧居を見下す位置にある高台には、「小説神髄」「党勢書生気質」を書いた頃の坪内逍遥邸があり、その坪内逍遥邸を旧伊予藩主が買い取って作った常磐会いう寄宿舎には、正岡子規河東碧梧桐などが寄宿生としていたし、内藤鳴雪が舎監をしていた。その一角をグルッとまわりこんだあたりには、金田一京助、春彦が棲んでいた家がある。数ブロックはなれたところには、京助から物心両面の援助を受けていた石川啄木の住居跡もある。
樋口一葉旧居のすぐ近くの菊坂下通りには、宮沢賢治の下宿跡がある。その頃(1921年)賢治は、東大赤門前の謄写印刷店で筆耕の仕事をしながら馬鈴薯と水だけの食事(菜食主義の実践)で、毎晩童話を書きつづけていた。なんと1日300枚という驚異的なペースで書き、8ヵ月後に帰郷するときにはトランクいっぱいの原稿をもち帰った。「注文の多い料理店」などはこの間の作品である。
もう少しあとの作品となるが、「グスコーブドリの伝記」は、現代に示唆するところきわめて大きな作品だ。
グスコーブドリは、郷里岩手の貧困と干魃、冷害、飢饉、地震、噴火などの災害とその苦しみを知りつくした上で、イーハトーブ火山局につとめるようになり、イーハトーブの300をこえる火山をコントロールして、自由自在に噴火させたりそれを止めたりする技術を学んでいく。そしてついには、目の前に迫る大冷害を防ぐために、自らが犠牲となって火山を大噴火させ、噴出する炭酸ガスの温暖化作用で冷害を本当に見事に食いとめてみせるという壮大な物語である。
いま、原発事故のあとを受けて、次世代エネルギーをどこに求めるべきかの議論がもち上がっている。そしてもっと再生可能の自然エネルギーを利用すべきだとの方向づけが強くなりつつある。
その1つとして最近特に注目されているのが、地熱エネルギーだ。日本は痔熱の利用率が極端に低い(ポテンシャル量のわずか2%、総発電量のわずか0.3%)。しかし技術的にはきわめて高いものを持っており、日本の3社が世界の地熱発電の7割を制している。資源的にも世界3位の地熱資源を持つ。フル活用したら簡単に原発23基分になるというのに、0.3%ではもったいなさすぎる。
会津地熱発電の技術開発をしている人に取材に行って、「現代のグスコーブドリですね」といったら、我が意を得たりというように、「そうです。その通りです」と嬉しそうに2つ返事で答えた。

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立花隆 Google 検索
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