じじぃの「人の死にざま_639_岡本・太郎」

岡本太郎 - あのひと検索 SPYSEE
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タモリ対談_2 動画 YouTube
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明日の神話 岡本太郎 動画 YouTube
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岡本太郎記念館 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yT2Z-11Fgkg
岡本太郎生誕100年記念事業公式サイト
http://taro100.jp/
岡本太郎 太陽の塔、こどもの樹、岡本敏子と築いた純粋な芸術家の人生 デザインブログ バードヤード
http://www.albatro.jp/birdyard/illustration-art/okamoto-taro/index.htm
NHKアーカイブス「若者たちへのメッセージ 岡本太郎さん」 2011年4月24日
【出演】明治学院大学教授 山下裕二さん、第14回岡本太郎現代芸術賞受賞 平文祥晴さん、その他 【司会】桜井洋子
芸術は爆発だ!」のフレーズで知られた岡本太郎は、それまであまりなじみのなかった“前衛芸術”を広く一般に知られるものに変えたと言われる芸術家である。見るものに強烈な印象を与える作品と同時に、型破りな言動が注目を集めてきた岡本太郎であるが、生誕100年になる今、その言葉や生き方に魅かれる若者たちが増えている。「自分の中に毒を持て。」「迷ったら困難な道を選べ。」集団の中で目立つことを避け、“空気を読む”ことが求められる風潮が若者の間で広がる中で、人と違う生き方をしたいと志を持つ若者たちを勇気づける言葉として支持が広がっているのである。
番組では、若者たちの間で注目されている、岡本太郎の生き方や作品、そのメッセージを見つめる。
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2011/110424.html
岡本太郎 ウィキペディアWikipedia) より
岡本太郎(1911年(明治44年)2月26日-1996年(平成8年)1月7日)は、日本の芸術家。1929年から1940年までフランスで過ごし、抽象美術運動やシュルレアリスム運動と直接関わった。戦後、日本で積極的に絵画・立体作品を制作するかたわら、縄文や沖縄のプリミティブな美術を再評価するなど、文筆活動も精力的に行った。雑誌やテレビなどのメディアにも積極的に出演した。
【来歴】
岡本太郎(以下太郎)は神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平歌人で作家・かの子との間に一人息子として生まれた。
父一平は朝日新聞で漫画漫文という独自のスタイルの連載を行い、人気を博した。「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。
母かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 お嬢さん育ちで世間知らずの、家政や子育てが全く出来ない人だった。太郎が3〜4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯で箪笥にくくりつけたというエピソードがある。後に太郎は「母親としては最低の人だった。」と語っている。また不倫を繰り返し、彼女の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平公認で自宅に住まわせた。
1917年(大正6年)4月、東京青山にある青南小学校に入学するもなじめず、追い出される形で一学期で退学。その後も日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返した。そして慶應義塾幼稚舎でようやく太郎の理解者となる教師、位上清に出会った。クラスの人気者になったが、成績は52人中の52番だった。ちなみにひとつ上の51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の藤山一郎であった。
父・一平が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、太郎も東京美術学校を休学し、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた日光丸は1929年(昭和4年神戸港を出港、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。太郎は以後約10年間をここで過ごすことになる。
1932年(昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は1939年(昭和14年)に太郎の帰国を待たずに逝去し、これが今生の別れとなった。
芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄った画廊でピカソの作品を見て、太郎は強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。
1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は太郎の油彩画『夜』から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。彼女は後に秘書・養女となり、太郎が死ぬまで陰日向に支え続けた。
1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、主催者(国)は紆余曲折の末、シンボル・タワーの制作を岡本太郎に依頼した。太郎は承諾し、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」とひたすら構想を練った。そうして出来上がったのが巨大なシンボル・タワー『太陽の塔』である。
1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により死去。享年84。
2003年(平成15年)、メキシコで行方不明になっていた大作『明日の神話』が発見された。愛媛県東温市で修復されたのち、2006年(平成18年)、汐留日テレプラザで期間限定で公開、岡本太郎再評価の機運が高まる。この作品は現在京王井の頭線渋谷駅連絡通路に設置され、公共アートとなっている。

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NHKスペシャル 「太郎と敏子 〜瀬戸内寂聴が語る究極の愛〜」 2011年6月24日
【出演】瀬戸内寂聴 【語り】松本和也
生誕100年を迎えた芸術家・≪太陽の塔≫。「太陽の塔」や「明日の神話」など、独創的な作品を次々と発表してきた。その傍らで、いつも太郎を支えていたのが岡本(旧姓平野)敏子だった。
対外的には太郎の秘書、実質的には妻、戸籍上は養女だった敏子。2人は不思議な関係を保ちつつ独特の愛を貫き、多くの芸術を生み出していった。太郎の作品作りに敏子はどうか関わり、2人はどのように愛を育んでいったのか。これまで分からなかったこれらの謎を解き明かす新資料が、かつて太郎と敏子が一緒に暮らしたアトリエから大量に発見された。
敏子が太郎との関係を綴った私小説。2人の往復書簡。敏子のプライベートな日記・・・・。そこには、2人の知らせざる愛の軌跡と、作品作りの詳細が克明に続かれていた。
こうした新資料を、太郎・敏子と親交が深かった作家・瀬戸内寂聴さんが読み解き、2人の関係を語っていく。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110624.html
岡本太郎岡本敏子が語るはじめての太郎伝記』 岡本敏子/著、篠藤ゆり(聞き手) アートン 2006年発行
2極の大作≪太陽の塔≫と≪明日の神話 (一部抜粋しています)
それほど危険なら道なら、やってみようじゃないか。引き受けて傷だらけになってやろう。
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太陽の塔≫は、ほぼ直観で生まれました。何度か大阪の千里に行き、現場を見ていますが、会場構成はすでに丹下さんたちがやっていて、もう決まっていた。テーマ館は30メートルの高さに立体トラス構造の大屋根をかけて、半透明の幕で覆われていて、その向かい側にアメリカ館がある。図面を広げながら現場でそう説明されている最中に、ひとこと、「70メートルだな」。
その瞬間に、30メートルの屋根を突き破って塔を立てることを閃いたのね。でもそのときは、何も具体的なことを言わない。そうしたら万博協会の人が、面白いことを言うの。
「万博は東京オリンピック以来、日本が国威をかけてやる事業で、アジアでははじめての開催です。だから、世界中の人たちに、このテーマ館に寄っていただかなくてはいけない。そのためのテーマ館です。だから、おおいに人を引きつけてください。ただ、このメインゲート前の広場は1日何万人もの人が錯綜しますから、そこにちょっとでも渋滞したら大事故が起きかねない。だから、ぜったいに人が立ち止まらないようにしてください」
太郎さんはユーモアのある人だから、ニヤニヤ笑ってこう冷やかした。
「あんたも、面白いことを言うねぇ。人を集めてください。でもそこに人が集まっては困ります。世界一の盾(たて)と、世界一の矛(ほこ)を作ってくれと言ってるんだよ」
でも瞬時に、解決策を思いついた、テーマ館に来た人たちは、すぐに地下に入って、まず根源の世界を見る。それから≪太陽の塔≫の中をずっとエスカレーターで上っていって、大屋根の部分が未来社会で、そこから広場のほうにエスカレーターで下りていく。だから≪太陽の塔≫は、象徴的な彫刻であると同時に、縦シャフトの交通の動線になっているんです。
太陽の塔≫は、すっかり万博のシンボルみたいになったけれど、最初は長なくと、ただの塔だった。そうしたら建築現場の人たちが便宜的に「太郎の塔」と呼ぶようになって・・・・。
あの塔の原型を発表したとき、評判が悪くて、
「なんであんなに、あまりにも岡本太郎的なものを、国のお金で国の広場に建てるんだ。けしからん」
とさんざん批判された。それなのに「太郎の塔」などと呼ばれた日には、なおさらみんなから怒られるというので、彼が咄嗟に≪太陽の塔≫と名づけた。でも咄嗟にその名が出てきたというのは、自分を太陽の分身みたいに思っているんでしょうね。他にも、彫刻≪太陽の鐘≫。犬山ラインパークのシンボルタワー≪若い太陽≫、別府駅前ビルのレリーフ壁画≪緑の太陽≫ばど、太陽と名のついた作品を多数制作しています。
太陽の塔≫は、お祭り広場をつかさどる、いわば"原始神"のイメージ。その内部は、生物の進化の過程を示す、"生命の樹"になっている。太郎さんは、記者発表のとき、
「人まねのできない、ベラボーなものができる。1970年を起点にしてそのベラボーさを日本人の生活に組み入れたい」
と説明しています。でもそんなことを言っても、誰も分からない。まるで牛乳瓶のオバケじゃないか、と批判した人もいました。でも例によって、ちっともへこまない。
「誤解、おおいにけっこうじゃないか。日本人は外国人に"ワンダフル"と言われそうなものばかりつくりたがる。僕はそれを、ぶち壊そうとしているんだ」
と、意気揚々としていました。
テーマ館の地下へは、エスカレーターで降りていくようになっていて、その途中が宇宙のビッグバンみたいな映像になっている。宇宙旅行みたいな感覚を味わいながら、マルチスクリーンを見ると、生命の誕生が映像で表現されています。当時のコンピュータは、しょっちゅう故障していたから、実質的にはほとんど手動制御だったようです。
太陽の塔≫そのものの建築も、なかなかの大仕事。というのも、≪太陽の塔≫は幾何学的ではないので、構造計算が難しい。当時大きなコンピュータと言えば東京大学に2台あるくらいだったので、それを≪太陽の塔≫が独占するわけにもいかず、本当に集中的に進めなくてはいけない時期には、手回しの計算機とそろばんで構造計算をやった。そういう時代です。
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万博準備中も会期中も、だから決してそれだけに集中していたわけではない。一方で『美の呪力』で深く降りていき、それだけではなく、メキシコにアトリエを構えて、大きな壁画の制作まで手がけました。
67年、ちょうど万博のテーマ館のプロデューサーを引き受けたころにマニュエル・スワレス氏というメキシコ人の大金持ちのおじいさんが訪ねてきました。メキシコ・シティにインスルヘンテス通りという目抜き通りがあって、その通りに面したパルケ・デ・ラ・ラマという大きな公園に、超高層の1500室のホテルを建てることになっている。68年にメキシコでオリンピックがあるので、それにあわせて開業するうもりだ、と言うの。
「そこに壁画を描いてください。これから一緒にメキシコに行って、現場を見てください」
突然、そう申し出があった。
なんでもスワレス氏の知人に日系人の造園家がいて、その人は日本にもよく来ていたらしく、岡本太郎の展覧会のカタログを持っていた。ホテルを建てるというのでその造園家に会った際、カタログを見せてもらったら、その瞬間、「この人にぜひ描いてもらいたい」と思ったんですって、それで、その造園家と一緒に会いにきたの。
万博のプロデューサーを引き受けた直後だったので、これから基本構想をきちんとまとめて、万博協会に提出してOKをもらわなくてはにっちもさっちも進まない。とても大変な時期で、メキシコなんて行っている場合じゃないんだけど、太郎さんはメキシコが大好きだから、つい、行きたくなってしまった。それでなんとかやりくりして、見に行った。そうしたら大きな公園に、東京ドームが3つぐらい入りそうな穴が開いていて。もう鉄筋が立ち始めている。
スワレス氏は確かそのころ、85歳ぐらいで、子どもが20数人いらした。ホテルの前に、メキシコへ気が運動の巨匠シケイロスの「ポリフォルム」という楕円形の大きな建物も作っていて、外側も内側もシケイロスレリーフ。それで、ホテルの前に岡本太郎のモニュメントを建てて、モニュメントをはさんでシケイロスと対象の場所に岡本太郎のポリフォルムを作るという構想もあったの。その前に、まずはホテルの壁画をやってくれ、という話でした。
それで帰国して、記者会見をして、翌日から下絵を描き始めました。まずは、骸骨が燃え上がっているところから、瞬間的に、テーマが降りてきたのね。それが≪明日の神話≫。
中心に骸骨があって、原爆が炸裂して、炎が渦巻いている。端ではビキニ環礁死の灰を浴びた第五福竜丸がマグロを引いているし、下のほうで魚や虫みたいな生き物がわらわら逃げ散っている。世界全体が原爆で燃え上がっているみたいだけど、決して陰気な絵ではない。キノコ雲が増殖しているけれど、最後は生まれたての赤ちゃんのキノコ雲が、びっくりしたような顔をして下を向いていて可愛いらしいし。絵全体が外に向かって激しく放射して、画面全体が哄笑(こうしょう)している。原爆が炸裂した瞬間に、悲劇を抱えながらも誇らかに明日の神話が生まれているんだという、未来への力強いメッセージなのね。≪明日の神話≫なんだから。
すぐにテーマが閃いたというのは、やはり問題意識がすでに心の中にあったんでしょうね。壁画を頼まれるまでは、具体的には何も考えていないけれど、描くと決めたとたん、描くべきものが降りてきた。でも、帰国してすぐに骸骨から描き始めたので、私もちょっと心配になって、なにせ、ホテルの正面ですから。
「骸骨でいいんですか?」
と聞いたら、
「これがパリや東京なら、ぜったいにかけてくれないよ。でもメキシコだからいいんだよ」
メキシコには「死者の祭り」というのがあって、みんなが骸骨のぬいぐるみを着て、露天では骸骨のパンだの骸骨の砂糖菓子なんかを売っている。それを知っていたから、骸骨に親しみがあるだろうと、確信を持っていたのね。「メキシコは生と死が抱き合っているような国だから」とも言っていました。
実際、現地で絵を描いていると、日本の偉い絵描きが壁画を描いているというので、美術界の人やジャーナリストや社交界の連中がぞろぞろ見にくるの。あの人たち、時間はたっぷりあるから。でも、「なんとすばらしい原色だ。この色はすごい」と褒めるけれど、「骸骨ですね」などと言う人はひとりもいない。あれには驚いた。それにしても、メキシコ人が「原色だ」と驚くんだから、面白いでしょう。

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