じじぃの「人の死にざま_627_栗林・忠」

栗林忠道 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%A0%97%E6%9E%97%E5%BF%A0%E9%81%93/6434/
Battle of Iwo Jima 硫黄島の戦い 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=OVVdSX_gDH0
実録 硫黄島玉砕 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=wc9Cq5CkUZY&feature=related
硫黄島の戦いⅡ〜栗林忠道 中将〜
http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-79.htm
栗林忠道 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
栗林忠道は、大日本帝国陸軍の軍人。長野県埴科郡旧西条村(現:長野市松代町)出身。最終階級は陸軍大将。硫黄島の戦いでの日本側指揮官として知られる。
【生涯】
戦国時代から続く郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)旧制長野県立長野中学校(現長野県長野高等学校)を卒業。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり陸軍士官学校へ進学。
陸軍騎兵学校を経て、1923年(大正12年)11月に陸軍大学校卒業(第35期)。
アメリカとカナダに駐在武官として駐在経験があり、ハーバード大学に学ぶなど、陸軍の中では珍しい米国通だった。国際事情にも明るく対米開戦にも批判的だった。1943年(昭和18年)6月 陸軍中将に任官。 留守近衛第2師団長となる。
1945年(昭和20年)2月19日からの硫黄島の戦いの指揮を執る。圧倒的な劣勢の中、米軍の予想を遥かに上回り、粘り強く戦闘を続けるが3月16日、大本営に訣別電報を打電。翌17日、大本営よりその功績を認められ、特旨を以て陸軍大将任官。これは平時とは異なる戦時昇進ではあるが、日本陸海軍中最年少の大将である。その為、栗林の大将任官は訣別電報を受けての進級ではあるものの、死後進級である特進では無い。3月26日、数百名の将兵と共に、自ら指揮を取り米軍陣地に対し最後の攻撃を敢行し、戦死したと推定される。
【評価】
米国においては、硫黄島の戦いの報道がリアルタイムでなされていた事もあり、この戦闘の状況と栗林の知名度は高い。
特に戦後、軍事史研究家やアメリカ軍軍人に対し、「太平洋戦争に於ける日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか」と質問した際、「クリバヤシ将軍(General Kuribayashi)」と栗林の名前を挙げる人物が多いと云われている。結果的に敗北に終わったものの、僅か22km2(東京都北区程度)にすぎない硫黄島を、日本軍の3倍以上の兵力、制海権・制空権・予備兵力・物量・補給線・装備全てに於いて圧倒的に優勢であったアメリカ軍(アメリ海兵隊)の攻撃に対し、最後まで兵の士気を低下させずに、アメリカ側の予想を上回る1ヵ月半も防衛した采配は高く評価されている。

                                    • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
栗林忠道(くりばやしただみち) (1891-1945) 54歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和19年6月、栗林中将は飛行機で硫黄島に着任した。
1ト月後の7月、栗林は、10歳の女児もある東京の家族に、「この世乍(なが)らの地獄のような生活を送っている」という手紙を書いている。
硫黄島は約20平方キロ、半日も歩けば1周出来る小島であった。着任以来、栗林はみずから陣頭に立ち、兵を督励して全島に蜘蛛(くも)の巣のように坑道を掘らせはじめた。しかしこの島は、掘ればたちまち亜硫酸ガスが噴出し、地下10メートルで摂氏49度に達する地熱の島であった。兵たちはフンドシ1本で、ツルハシ、スコップをふるったが、作業は3分か5分しか耐えられなかった。しかもすでに内地からの補給は思うにまかせず、鉄やセメントなどの補強材はもとより、食料も欠乏して栄養失調で倒れる兵が続出した。
しかしこの島はサイパンと東京の中間地点にあたり、米軍にとっては、戦闘機の基地として、また日本空襲のB29の不時着用基地として、何としても手にいれたい島であり、それが明白なだけに、日本軍としては絶対に敵に渡してはならない島であった。
とはいえ、米軍が来攻すれば全滅は必至であり、この地獄のような苦役の果てに待つ者はただ死の運命しかないことは、栗林以下2万933人の将校みな承知していた。生きるために、ではなく、死ぬために悪戦苦闘しなければならぬ、ということが戦争にはあるのである。
半年にわたって硫黄島は爆撃されつづけた。そして、ついに昭和20年2月16日、戦艦7、空母11、重巡4、駆逐艦15の米大艦隊が来攻し、3日間にわたる砲爆撃ののち――このときアメリカ軍が打ちこんだ鉄量は、全島を厚さ1メートルの鉄で覆うに足るものであったといわれる。――18日未明から、海兵隊は水陸両用の装甲車500隻をもって上陸を開始した。
米軍の攻略予定期間は5日間で、事実、島南端の擂鉢山(すりばちやま)に星条旗が押し立てられたのは2月24日であったが、地下壕を利用する日本軍は容易に屈せず、戦闘はそれ以後のほうが惨烈をきわめ、実に3月半ば過ぎまでつづいた。
3月16日、栗林は最後の訣別電報を東京の参謀長に送った。
「戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来 麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ。・・・・如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ」
死闘はなお10日間つづき、3月26日午前2時ごろ、栗林以下生き残りの将兵約140数名は、白だすきをかけて地下壕から出撃し、玉砕した。
戦闘中、栗林は右大腿部に負傷し、兵に背負われて指揮したが、出血多量のため行動不能となり、中根参謀に拳銃で頭部を撃つことを命じた。最後の言葉は「屍体を敵に渡すな」であった。中根参謀は栗林の屍体を埋めたのち、自決した。
日本軍2万933人中、1万9900人が戦死し、生き残った1000人余りも大半傷ついていた。アメリカ軍の死傷者は2万8686人であった。
栗林はスラリとした端麗な体格と容貌の持ち主であったが、一方的な戦闘となった太平洋戦争後半において、日本の指揮官中、最も効率のいい戦(いく)さをした名将であり、勇将であったといえる。

                                    • -

栗林忠道 Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E6%A0%97%E6%9E%97%E5%BF%A0%E9%81%93&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=j3LxTfHSDISIuAPTnbXRBA&ved=0CDAQsAQ&biw=909&bih=555