じじぃの「人の死にざま_615_S・ツヴァイク」

シュテファン・ツヴァイク - あのひと検索 SPYSEE
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マリー・アントワネット』。 | 今夜は Read It
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シュテファン・ツヴァイク人類の星の時間』(みすず書房
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わたしの書棚 : 新s あらたにす(日経・朝日・読売)
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シュテファン・ツヴァイク フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
シュテファン・ツヴァイクオーストリアユダヤ系作家・評論家であり、1930年代から40年代にかけて大変高名であった。ただし、その死後は当時ほど読まれなくなっている。
ツヴァイクは長編小説と短編、多数の伝記文学を著した。歴史小説の評価が高く、『マリー・アントワネット』や『メアリー・スチュアート』が有名である。『マリー・アントワネット』は後に、ハリウッドで映画化された。
【生涯】
ツヴァイクは、ウィーンできわめて富裕なユダヤ系織物工場主であるモーリッツ・ツヴァイクと、妻イタリア人の銀行家一族出身のイダとの間に生まれた。ウィーン大学で哲学と文学史を学び、1904年に博士論文「イッポリート・テーヌの哲学」で哲学博士号を取得した(この博士号は1941年、ナチス支配下オーストリアで「人種的理由から」剥奪され、2003年4月になり取り消された)。
第一次大戦後はオーストリアに戻り、1919年から1934年までザルツブルクに滞在する。ザルツブルクでの住居はカプチーナベルクのパッシンンガー城であった。1920年にフリデリケ・フォン・ヴィンターニッツ(Friderike von Winternitz)と結婚する。以降広く知識人と交わり始め、ヨーロッパの精神的独立のために尽力した。この期間には多くの代表作が書かれ、中でも1927年の『人類の星の時間』はドイツ語圏では、彼の代表作とされている。1928年にはソヴィエト連邦を旅行して、マクシム・ゴーリキーと交際する。1930年にはアメリカに旅行し、亡命中のアルベルト・アインシュタインに面会して 『精神による治療』(Heilung durch den Geist)を献呈する。1933年ヒトラードイツ帝国首相就任の前後からオーストリアでも反ユダヤ主義的雰囲気が強まり、1934年に武器所有の疑いでザルツブルクの自宅が捜索を受けたことを機に、ユダヤ人で平和主義者だったツヴァイクはイギリスへ亡命する。
ツヴァイクはその後、英国(バースとロンドン)に滞在し、1940年に米国へ移った。1941年にはブラジルへ移住。1942年2月22日、ヨーロッパとその文化の未来に絶望して、ブラジルのペトロポリスで、1939年に再婚した二番目の妻であるロッテ(Charlotte Altmann)とともに、バルビツール製剤の過量摂取によって自殺した。死の一週間前には、旧日本軍によるシンガポール陥落の報に接し、同時期にリオデジャネイロのカーニバルを見ており、自分達のいる所とヨーロッパとアジアで行なわれている現実のギャップに耐え切れず、ますます悲観したようである。
遺著となった『昨日の世界』は、自身の回想録で、著者が失われたものと考えたヨーロッパ文明への賛歌でもあり、今日でも20世紀の証言としても読まれている。
作曲家のリヒャルト・シュトラウスが、ナチ政権下で自身の作品歌劇『無口な女(Die schweigsame Frau)』における、台本作家としてのツヴァイクの名前のクレジットを守るために戦ったことは良く知られている。このため、アドルフ・ヒトラーは予定されていたこの歌劇の初演への出席を取りやめ、結局この歌劇は、3回の公演後に上演禁止とされた。
【主要作品】
・1922年 アモクAmok(短編集)
・1925年 感情の混乱Verwirrung der Gefuehle(短編集)
・1927年 人類の星の時間Sternstunden der Menschheit(歴史的短編集:全5作)
1920年 三人の巨匠Drei Meister(評伝)
・1925年 デーモンとの闘争Der Kampf mit dem Daemon(評伝)
・1931年 三人の自伝作家Drei Dichter ihres Lebens(評論)
・1929年 ジョゼフ・フーシェJoseph Fouche(評伝)
・1933年 マリー・アントワネットMarie Antoinette(評伝)
 ・みすず書房の他、岩波、河出、角川の各文庫・上下巻で刊行。
・1939年 心の焦燥Ungeduld des Herzens(小説)
・1942年 昨日の世界Die Welt von gestern(回想)
・1942年 チェスの話Schachnovelle(中編)
・1943年 人類の星の時間Sternstunden der Menschheit(歴史的短編集:全12作、上記を増補) 
 ・別社の抄訳版、「歴史の決定的瞬間」(白水社、復刊1997年)がある。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ツヴァイク (1881-1942) 61歳で死亡。 (一部抜粋しています)
1942年2月16日、17日の両日は、リオの名物カーニバルの日であった。リオデジャネイロの近郊ペトロポリスという町に亡命していたシュテファン・ツヴァイクも見物に来た。
そして17日朝刊を見ると、昨日の祭りのにぎやかな写真とともに、日本軍が2月15日シンガポールを陥落させたという大きな記事が出ていた。ツヴァイクも大きな衝撃を受けたようであった。それでその日も祭りを見物する予定であったのに、すぐそのままペトロポリスに帰って行った。
21日、ツヴァイク夫人ロッテが、同じペトロポリスに住む知人エルンスト・フェーダー夫妻に電話をかけ、きょうは早めに夜8時ごろおいで下さいませんか、といった。毎土曜日、チェスをする仲だったのだ。
それで8時ごろフェーダーが訪れると、ツヴァイクは机に向かって、何か書きものをしていた。「早く来すぎましたかね。お邪魔でしょおうか」というと、ツヴァイクは「いや、全然そんなことはありませんよ」と答えたが、何かソワソワしていた。
フェーダー夫妻はその晩4時間も話こんだあげく、チェスを朝鮮した。承知したツヴァイクを、夫人ロッテは呆れたようにしげしげと眺めていた。
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翌22日。
「すべての友人に挨拶を送ります。私の友人たちが長い夜ののちになお曙光を見ることが出来ますように! あまりにも性急な私は、今、先にゆきます」
という遺書を残して、ツヴァイクは妻ロッテとともに服毒自殺をとげた。
彼はシンガポール陥落に、彼の精神的故郷たるヨーロッパの滅亡を予想して、そのショックで自殺したものと見られている。
Stefan Zweig Google 検索
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