じじぃの「人の死にざま_602_織田・作之助」

織田作之助 - あのひと検索 SPYSEE
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朗読:織田作之助「秋の暈」(合成音声オーディオブック) 動画 YouTube
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織田作之助夫婦善哉」(ラジオドラマ) 動画 YouTube
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作家別作品リスト:織田 作之助
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織田作之助 ウィキペディアWikipedia)より
織田作之助は、日本の小説家。通称「織田作」。
【経歴】
1913年(大正2年)、大阪市南区生玉前町(現天王寺区上汐4丁目)にて、仕出屋「魚春」の織田鶴吉、たかゑの長男として生まれる。
1931年(昭和6年)、旧制大阪府立高津中学校(現・大阪府立高津高等学校)を卒業し、第三高等学校(新制京都大学教養部の前身)文科甲類に合格を果たす。1934年(昭和9年)、卒業試験中に喀血し、白浜温泉への転地療養を余儀なくされる。その後復学はするものの、勉学に対する意欲を失い、町歩きに明け暮れるようになり、結局1936年(昭和11年)に出席不足で退学した。
1939年(昭和14年)3月に帰阪。この時期、作之助は日本織物新聞社や日本工業新聞社(現・産業経済新聞社)への勤務を経験している。
1939年9月には『海風』6号に「俗臭」を発表。この作品は、義兄竹中国治郎の長兄・吉川重太郎の生涯に題を得たものだが、これが翌年、室生犀星の推薦で芥川龍之介賞候補作となって注目を集める。更に7月に発表した「夫婦善哉」(小説)が改造社の第一回文芸推薦作品となり、これを機に本格的な作家生活に入る。 尚、俗臭冒頭に登場する児子勘吉は義兄竹中国治郎、吉川重太郎の父、湯浅の網元、吉川房六と言われている。
戦時中には長編小説「青春の逆説」が発禁処分を受けたりしたが、当時の世俗を活写した短編「世相」を発表するなど、新戯作派(無頼派)の一人として活躍し、「オダサク」の愛称で親しまれた。
1944年(昭和19年)に妻・一枝を癌で亡くし、2年後に笹田和子と再婚した。
1946年(昭和21年)12月、結核による大量の喀血を起こし、東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)に入院する。一進一退しつつも病状は徐々に悪化し、翌年の1月10日に死去。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
織田作之助(おださくのすけ) (1913-1947) 34歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和15年、27歳で『夫婦善哉』を書いた織田作之助は、雌伏(しふく)していた戦争期が終わって、昭和21年が明けるとたちまち大流行児となり、「読売新聞」に『土曜夫人』を連載しはじめた。
11月大阪から上京して銀座裏佐々木旅館に宿泊、訪客と原稿に忙殺されていたが、12月5日午前2時ごろ、電気コンロを囲んで編集者たちと雑談中、突如大喀血を起した。
12月10日の朝、東京病院(後の慈恵医大附属病院)に運ばれたが、それは旧兵舎を移転したぼろぼろの建物で、織田作之助は、これはまるで施療病院やないか、旅館に戻せ、と、だだをこねてあばれた。
「(22年1月)10日の朝、口から回虫が出た。午後から烈しい喀血が再び始まった。暗くなった。手がぱたんとふとんに落ちた。付き添いの看護婦が作之助の顔をのぞき、ああと声をあげて廊下へ走った。猿田医員がすぐ来た。織田さんしっかり、と言いながら、ビタカンフルを何本も胸に打った。ぱっと目を見開いた。意識ははっきりしていた。かすれた聞き取り難いつぶやきを、昭子は聞いた。思いが残る」(大谷晃一『生きた愛した書いた――織田作之助伝』)
当時25歳、作之助が第1回の喀血で窒息しかけたとき、口に口をつけて血を吸ってやったという昭子夫人は、のちに徳川無声の「問答有用」で語る。
無声「死ぬとき、最後のことばは?」
織田「それがね。言語道断なんです。酸素吸入をかけられながらいったことばが、お前に思う想いが残って、死にきれない」
「猿田は脈を取り続けていた。作之助は左向きになって、胸をかきむしろうとする。小さい気管支に血が詰る。目のくぼみが一きわ濃くなった。心音が止まった。
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血だらけの作之助の顔は、ねずみ色に変わっていった。肺結核による大量出血のための窒息死である。昭和22年1月10日午後7時10分(大谷晃一「同上書」)
織田作之助の死を聞いた太宰治は書いた。
「私は織田君の短編小説を2つ通読した事があるきりで、また逢ったのも2度、それもつい1ヵ月程前に、時初めて逢ったばかりで、かくべつ深いつき合いであったわけではない。
しかし織田君の哀しさを、私はたいていの人よりもはるかに感知しているつもりであった。
はじめて彼と銀座で逢い、『なんてまあ哀しい男だろう』と思い、私もつらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのがありありと見える心地がしたからだ。
こいつは死ぬ気だ。しかし、おれにはどう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外はない」
そして、その翌年に太宰もまた死ぬのである。

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