じじぃの「ツタンカーメン王墓が盗掘を免れた本当の理由!エジプト学夜話」

Tutankhamun 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=6qRZoVAJSbQ
Tutankhamun 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=h1s0BI-H5h0&feature=related
ツタンカーメン ウィキペディアWikipedia)より
ツタンカーメン(紀元前1341年頃-紀元前1323年頃)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1323年頃-紀元前1333年頃)。より厳密な表記ではトゥト・アンク・アメンという。
ツタンカーメンの墓】
王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、1922年11月4日にイギリスのカーナヴォン卿の支援を受けた考古学者ハワード・カーターにより発見、発掘された。ツタンカーメンは王墓としてはきわめて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けなかった(実際には宝石の一部などが抜き取られていたが、副葬品自体は無事だった)、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。
その発掘は世界を大いに驚かせた。発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたので、それをきっかけとして『ファラオの呪い』という伝説が広まり、またそれに関する謎解きもさかんに行われるようになった。
また、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから、ツタンカーメンが暗殺されたとする説を裏付けるものかと注目された。だが、いくつかの傷は20世紀前半当時のミイラを文化財として大事にしない風潮のために発掘時につけられたものであったことが明らかになっている。
ツタンカーメンのミイラと、黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品はエジプトに残された。そして、黄金のマスクや純金製の第3人型棺をはじめとする副葬品の大半は現在はカイロにあるエジプト考古学博物館に収蔵されて観光客に公開されている。 またツタンカーメンの墓には出産直後か死産かと見られる二体の子供のミイラも一緒に葬られており、これはツタンカーメンの子供だと考えられている。

                                          • -

セキュリティ・遺産シリーズ「ツタンカーメン」篇 富士通エフサス
ツタンカーメンの王墓を盗掘から守ったのは、内部の敵に備える忠臣の厚いセキュリティだった。
ツタンカーメン王の忠臣マヤは「永遠の宮殿の管理者」と呼ばれ、王の没後も王家の谷の管理者として王墓を守り続けました。特に王の死後間もなく、盗掘しようとした犯人を墓守りが捕えた事件後、マヤは警戒態勢をより厳重に見直し、墓の修復や防衛策の改善、建造に関った内部者への監視徹底など、対策に万全を期したといわれます。
(関連書籍:「吉村作治の文明探検2 ツタンカーメン ファラオの都テーベ」吉村作治 平凡社
http://jp.fujitsu.com/group/fsas/ad/solution/tutankhamen.html
世界ふしぎ発見 「日本初!ピラミッド登頂!201段全段計測!」 2015年3月14日 TBS
【司会】草野仁出水麻衣 【解答者】黒柳徹子野々村真高橋英樹伊集院光武井壮市川紗椰 【レポーター】竹内海南江
ピラミッドは短期間で作られた?ピラミッド構造の新たな手がかりに迫る!
今までの何百万個もの石が積み上がっているというピラミッドの前提は、あくまでも仮説だった。新たな仮説は、外側の壁を作って、その中にどんどん石を放り込んでいく。足りない部分には砂やモルタル等の素材を放りむ、という造り方。こういった造り方自体は、他の発見されている遺跡でも見られるような割りとポピュラーな方法だそうだ。
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/bknm/20150314/p_1.html
世界ふしぎ発見 「古代エジプト続々新発見SP」 2014年10月11日 TBS
【司会】草野仁出水麻衣 【解答者】黒柳徹子野々村真ブラザートム山里亮太永瀬匡清水富美加 【レポーター】竹内海南江
最新技術によって明らかになった古代エジプトの新事実とは?
エジプト女性研究者、「ツタンカーメンの男性器は興奮した状態にされていました」
ツタンカーメンのペニスは勃起した状態でミイラ化されていたそうです。
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/bknm/20141011/p_1.html
林修今でしょ!講座 2014年9月2日 テレビ朝日
【出演者】林修宇佐美佑果中島健人天野ひろゆき、【講師】吉村作治
ツタンカーメンを誰が殺したのか?
吉村さんは神官のアイと将軍のホルエムヘブという人物が毒見をしないワインに毒物を混入し殺したと主張している。
吉村さん、「実はね、ツタンカーメンのお棺の中に矢車草が入っていた。つまり、矢車菊が棺に入っていたという事は矢車菊が咲く時期より70日前にツタンカーメンが死んだ事を意味します」
この頃に行われるある行事がツタンカーメンの死の謎を解く鍵になるのだと言う。
ツタンカーメンの部下だった神官のアイと将軍のホルエムヘブが、ワインに毒を盛り暗殺した。
そのホルエムヘブは第18王朝最後のファラオとして、そしてホルエムヘブが自分の後継者として指名したラムセス1世が第19王朝の最初のファラオになった。
http://www.tv-asahi.co.jp/imadesho/
地球ドラマチック 「ツタンカーメンの謎〜死の真相に迫る〜」 (追加) 2015年3月14日 NHK
【語り】渡辺徹 (2014年 イギリス・カナダ製作)
黄金のマスクで知られるツタンカーメン。幼くして即位し、19歳くらいで亡くなったとされる。その素顔は謎に包まれている。このほど研究者がツタンカーメンのミイラをCTスキャンなどで徹底調査した。身長、腰幅、顔のつくりまでを解明し、CGでリアルに再現する。また、持病があったことも判明。どのような生活をしていたのかも分かってきた。マスクの奥の素顔に迫る。
●本当の死因は?
 両親が近親婚であるという事実。それらは何を物語るのでしょうか?ツタンカーメンの一族は若くして亡くなった人が多くいます。ツタンカーメン自身も父親のアクエンアテンも曽祖父も早く亡くなりました。一説によればツタンカーメンは父よりも短命で、父は祖父よりも短命でした。
●死をもたらした病気とは?
 ホルモンのバランスを崩し、時に強烈な幻覚を引き起こし、ツタンカーメンの足の骨折とも何らかの関連がある病は側頭葉てんかんてんかんは脳に影響を及ぼし幻覚を引き起こしたり、ホルモンの生成を阻害したりします。さらに発作が思いがけない事故につながることもあります。左ひざの骨折は突然の発作で倒れた時に起きたものかもしれません。つまり、てんかんそのものが死因ではなく発作のさいの事故が命取りになったのです。発作のさいに転倒して骨折し、出血や感染症などに見舞われそれが元で亡くなったと考えられるのです。
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/183/2340388/index.html
エジプト学夜話』 酒井伝六/著 青土社 1980年発行
ツタンカーメン王墓の「奇跡」の作者は忠臣マヤであった (一部抜粋しています)
エジプト学の中で、ツタンカーメン王墓の発見と発掘にまつわるものほど人びとの心を掻き立てるものはない。一方には、発掘者カーターと出資者カーナーヴォンがはらった辛苦にみちた努力のエピソードがあり、他方には、ほとんど無償で発見された豪華な王墓の宝物のエピソードがある。前者については、「第6夜」でお話したから、こでは後者について話を進めてみたい。
ピラミッドは地表に誇示的に築かれたが故に盗人を誘惑した――と考えたのは、第18王朝の3番目の王、トトメス1世である。俗世から隔絶した場所に、そして地下に墓を築くほうが安全である――というのが彼の結論であった。こうして、第18王朝から第23王朝に至る新王国時代(紀元前1580-同1090)の諸王は王家の谷に墓をつくった(いうまでもないことだが、「王家の谷」という名称はファラオの時代から存在したわけではない。18世紀ごろ、そこに王墓が多いことからエジプト人がアラブ語で「ビバン・エル・モルク」――諸王の門――と名付けてのがはじまりで、これを英仏人がValley of the Kingsと翻訳し、それをこんどはわれわれ日本人が「王家の谷」と翻訳しているわけである)。
岩の中に掘った墓は安全であったかといえば、そうではなかった。第20王朝のラムセス9世時代の記録に、大がかりの墓荒しとそれをめぐる裁判を述べているものがある。ラムセス9世から第21王朝末にかけて、中央権力は衰弱したのであった。そして、この両王朝のあいだにほとんどの王墓は荒されたのである。このような墓荒しに役人が関与していたことはたしかである。
しかし、第18王朝のツタンカーメン王墓は墓荒しを免れた。カーターが発掘したとき、盗人のはいった形跡はあったものの、持ち出さたものは香油類と類推された。つまり、ツタンカーメン王墓は事実上、無傷だったのである。すでにファラオ時代に、そしてとくにそれ以後に、盗人が暗躍した王家の谷で、どうしてそのような「奇跡」が可能であったのか。
     ・
ツタンカーメン発掘記』の第一巻で、カーターはツタンカーメン王墓が無傷で生き延びた事情について、豪雨のため上部が土砂で埋まり、その上に別の王の墓の労働者の小屋がつくられた・・・・と推定したが、マヤの献納品について報告している第三巻では、マヤの特別の努力を想定している。そのことを直接、文章にしているわけではないが、彼自身の次の記述は非常に示唆的である。「おそらくマヤは王陵の建設責任者であったろうし、ホレンヘブ王の第8年にはその『副官、テーベの家令トトメス』とともに墓盗人の手にかかって略奪さてたトトメス4世の墓の復旧を命ぜられている。それはちょうど、ツタンカーメン王埋葬後11年の頃のことで、同王の墓も諸種の盗難にあったとあと、再び封印されたようである。ツタンカーメン王の墓の再封印のとき、おそらく、マヤはその責任者であったらしい。なぜならトトメス4世墓に用いられた封印は、ツタンカーメン王墓の再封印に用いられたものと、きわだって似ているからである」
     ・
マヤの王墓造営についてはすでに記したが、その後の警備管理の責任者としての行為にも目を向けるべきである。彼は役人としての義務のほかに、亡き王への敬愛の念にみちた中心としての立場から、入念な監視をさせた。しかし、数年にして、早くも第1回の盗掘の試みがあった。現場の役人の手引きがあったはずである。マヤがそれを修復してから、また数年後にも同じ試みがなされた。実害はほとんどなく、香油類が持ち出されただけであった。マヤは再修復を施した。監視はいっそう厳重になった。軍人ミンネクトの腹心の部下が、王墓の警備に当たったということも考えられる。実際、治安はアケナトン王の時代から乱れており、役人の規律もゆるんでいたのである。
やがて、王墓の安全のために、これを大掛かりに土砂で埋めて匿してしまう計画がマヤによって立案された。考古学者カーターは、あるとき豪雨のために埋まったかもしれないと推定を記したが、それは説得力を欠く。計画的に王墓を埋めて管理したがゆえに、王墓は生きのびた――と見る方が理にかなう。
マヤは王墓を埋めて、それで安堵していたわけではない。彼はアイ王の時代にも高位にあり、ついでホレンヘブ王の時代には、さらに昇進して「国王の左側に侍って扇を奉持する者、カルナック神殿におけるアメン新の祭りの施主」という位に就いている。彼は、どの地位に居ようとも、敬愛するツタンカーメン王墓の安全保持を忘れることはなかった。ホレンヘブは30年に近い治世をもったので、マヤは長いあいだツタンカーメン王墓に対して特別の配慮を払いつづけることができた。そして、いつの間にか、王墓の位置は盗人にもわからなくなり、「奇跡」が実現することとなった・・・・。

                                          • -

どうでもいい、じじぃの日記。
ネットで「20世紀最大の発見 王の墓」をキーにして検索してみた。
●1922年、ツタンカーメン王の墓がほとんど無傷で見つかりました。 それまで見つかった墓は全て盗掘されたり破壊されていただけに、20世紀最大の発見とも言われ、その後のエジプト史をひも解く大きなきっかけとなりました。
が出てきた。
エジプト文明は紀元前3000年頃から始まり、紀元前30年頃にローマ帝国支配下に入るまでの時代をいう。
ギザの三大ピラミッドのうち最大の大きさを誇るクフ王のピラミッドが建設されたのが紀元前2520年頃だった。
エジプト文明の黄金期は紀元前1570年頃から紀元前1070年頃でエジプト新王国時代と呼ばれた。
ツタンカーメンが生きた時代は紀元前1341年頃から紀元前1323年頃でちょうどエジプト新王国の時代だ。この時代はエジプトの最強の王と呼ばれたラムセス2世が生きた時代でもあった。
彼らは皆、それぞれの墓でツタンカーメン王のような黄金のマスクをしていたのであろうか。
酒井伝六著『エジプト学夜話』にはツタンカーメン王の墓が奇跡的に盗掘を逃れた理由が書かれている。
歴代の王の墓がほとんど盗掘されたのに、なぜツタンカーメン王の墓だけが盗掘を逃れたのか。
「やがて、王墓の安全のために、これを大掛かりに土砂で埋めて匿してしまう計画がマヤによって立案された」
一人の優れた忠臣なマヤがツタンカーメンの王墓を守り続けたからだった。
しかし、たくさんあったであろう盗掘されたそれぞれの王の黄金のマスクはどこに消えてしまったのだろうか。