じじぃの「人の死にざま_585_田中・正造」

田中正造 - あのひと検索 SPYSEE
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田中正造 Shouzou Tanaka 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ijywrPg2Jv0
自分の編集動画「日本人は何を考えてきたのか」③田中正造南方熊楠 動画 YouTube
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足尾銅山 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Unu0reNsDzA&feature=related
日本人は何を考えてきたのか 「第3回 森と水と共に生きる 〜田中正造南方熊楠〜」 (追加) 2012年1月22日 NHK Eテレ
【出演】西島秀俊(俳優)、中沢新一明治大学 野生の科学研究所所長)、小松裕(熊本大学教授)、郄橋美鈴アナウンサー
今から100年前、森と水を守ろうと奔走した二人の男がいた。「生命(いのち)の思想家」田中正造と「知の巨人」南方熊楠である。
足尾銅山鉱毒事件で 田中正造は、被害民のいのちを奪う鉱毒の実態を知り、政府と企業の責任を追究する。議員を辞職し、直訴した後、田中は、強制立ち退きに抵抗する谷中村に入った。自ら「谷中学」と称して村民に学び、水と森と共に生きる思想を生み出していく。原発事故以後、晩年の思想家・田中正造の再評価の声が日本のみならず、韓国でも高まっている。
http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0122.html
田中正造という人
http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/index4.html
田中正造 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
田中正造は、日本の政治家。足尾銅山鉱毒事件を告発した。衆議院議員選挙に当選6回。幼名、兼三郎。
【生涯】
下野国小中村(現在は栃木県佐野市小中町)生まれ。
父の跡を継いで小中村名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、これが元で明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄され(この時の牢は縦横高さともに1mほどしかない狭いもので、立つことも寝ることもできない過酷な構造だった)、翌年出所。
明治23年(1890年)、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選する。田中は帝国議会でも当初は立憲改進党に属していた。この年渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。
明治34年(1901年)10月、田中は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動はやめず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説をたびたび行った。
12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇足尾鉱毒事件について直訴を行う。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。
明治36年1903年)には栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が浮上。田中は明治37年(1904年)7月から実質的に谷中村に住むようにしている。同年、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事がはじめられた。
土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、大正2年(1913年)7月、古参の支援者らへの挨拶まわりに出かけ(運動資金援助を求める旅だったともされる)、その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現在の佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。下野新聞によれば、死因は胃ガンなど。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
田中正造(たなかしょうぞう) (1841-1913) 72歳で死亡。 (一部抜粋しています)
大正2年7月中旬、足尾鉱毒事件運動の田中正造は、「たくはつ」(注.運動費募金)に出かける、といって谷中村を出て、近郷の有志を歴訪中、8月2日、病んで足利郡吾妻村の庭田清四郎の家にころがりこみ、そのまま病臥した。
渡良瀬(わたらせ)川の鉱毒を沈殿させるため、谷中村を廃村にして遊水池を作る政府の方針は、田中正造らの反対を押し切って、明治40年6月にはついに谷中村の強制破壊が行われ、正造らは絶望状態にあった。
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9月4日朝、「見舞いの者が多勢来てるそうだが、みんな正造に同情するだけで、正造の事業に同情して来る者は一人も無(ね)え。おれはうれしくとも何とも無(ね)え。いって、みんなにそういえ」といった。
また、大息をつきながら、
「どうもこの日本の打ち壊し(注.環境破壊のこと)というものはひどいもので、国が4つあっても5つあっても足りることでは無(ね)え」といった。
午後零時50分、木下尚江に抱かれて病床に起き直り、痰(たん)を吐こうとして吐けず、大きな眼をむいてみなを見まわし、大息を吐こうとしてそのまま呼吸がとまった。彼の病名は胃ガンであった。
最後の旅の遺品は、菅笠一蓋(がい)、頭陀袋(ずだぶくろ)1個、中にはいっているのは新約聖書と日記だけだった。日記は8月1日に書かれたものが最後で、
「悪魔を退くる力なきは其身も亦悪魔なればなり、茲(ここ)に於ては懺悔(ざんげ)洗礼を要す」
と書かれてあった。
その最後を看とった木下尚江は「恰(あたか)も太陽の海に入るが如し」と形容したが、この時点において客観的に見れば、この明治最大の義人は、まさに野たれ死にひとしい死に方をしたのである。

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田中正造の言葉
「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」

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田中正造 Google 検索
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnso&tbm=isch&source=univ&sa=X&ei=Ab60TdyQAougvQPdp5iJBw&ved=0CCEQsAQ&biw=943&bih=548&q=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0%20%E7%94%BB%E5%83%8F