じじぃの「人の死にざま_572_ホメイニ」

ルーホッラー・ホメイニ - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%8B%E3%83%BC/1245/
Documentary on the Life of Imam Ruhollah Khomeini - 7/10 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=YSTr4wZDhIE&feature=related
I Knew Khomeini - 24 Jan 09 - Part 2 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=PEThWydE0Ok&feature=related
ルーホッラー・ホメイニ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
アヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーは、イランにおけるシーア派十二イマーム派の精神的指導者であり、政治家、法学者。1979年にパフラヴィー皇帝を国外に追放し、イスラム共和制政体を成立させたイラン革命の指導者で、以後は新生「イラン・イスラム共和国」の元首である最高指導者(師)として、同国を精神面から指導した。
ルーホッラー・ホメイニー」は原語での発音に近いカタカナ表記で、比較的新しい表記法。日本では本人存命中から今日に至るまで、外務省や新聞・報道は一貫して「ホメイニ師」「アヤトラ・ホメイニ師」などと表記しており、現在でも一般にはこのホメイニ師の方がより広く知られている。
現在の1000リアルから50000リアルの6種類の紙幣にその肖像を見ることができる。
【経歴】
ホメイニー師は、1902年にイラン中部のホメインの町でシーア派第7代イマーム、ムーサーの子孫を称するサイイドの家系に生まれ、当初の名をルーホッラー・ムーサーヴィーと言った。のちに「ホメイン出身の者」を意味するホメイニーを名乗る。
1941年から、公に皇帝に対する批判ができない国内情況の中で、皇帝の独裁的な西欧化政策に対する不満を表明する。
1964年、ホメイニー師の国民への影響力を恐れたパーレヴィ皇帝から拉致され、国外追放を受けた。この白色革命を含む皇帝の政策は独裁政治で事実上アメリカの傀儡政権であり、国民のことを考えない急激な改革を行って貧富の格差が増大した。これらのことに国民は反発して抵抗運動となったが、ホメイニー師はこの運動のシンボル的な存在だった。その後、トルコに滞在した後に、イラクシーア派の聖地ナジャフに移ったホメイニー師は、イラン国民に改革の呼びかけを行う一方、ここでシーア派イスラム法学者がお隠れ(ガイバ)中のイマームに代わって信徒の統治を行わなければならないとするホメイニ師以前からあったシーア派の理論をさらに発展させた「法学者の統治論(ヴェラヤティ・ファキーフ)」を唱えた。 このイラク滞在時に長男が突然死しているが、パーレヴィ皇帝のサヴァクによる暗殺とみられている。 1978年にイラクを離れ、フランスに亡命してからも、一貫して国外からイラン国民へ皇帝への抵抗を呼びかけ続けた。
1979年1月16日に反体制運動の高まりに耐えかねた皇帝がエジプトに亡命したのを受けて、ホメイニー師は2月1日にフランスから15年ぶりの帰国を果たしてイスラム革命評議会を組織した。2月11日、評議会は皇帝政府から権力を奪取し、唯一の公式政府となると、イスラム共和国への移行の是非を問う国民投票を行い、98%の賛意を得た。4月1日、ホメイニー師はイラン・イスラム共和国の樹立を宣言し、「法学者の統治論」に基づいて、終身任期の最高指導者(国家元首)となり、任期4年の大統領(行政府の長)をも指導しうる、文字通り同国の最高指導者となった。この一連の動きをイラン革命と呼ぶ。
1989年6月3日死去。86歳だった。最期の言葉は「灯りを消してくれ、私はもう眠い」だった。

                                          • -

朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
ルーホッラー・ホメイニ (1902-1989) 86歳で死亡 【執筆者】宇佐美雄策 (一部抜粋しています)
亡命先のパリから帰国するアヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー師は、チャーターしたフランス航空のジャンボ機最前列に座っていた。
黒ターバンに黒衣。いつものように寡黙で厳しい表情だ。後ろに次男アーマドが座り、周りを側近たちが固める。後部席には、海外で反王制運動をしていた百数十人のイラン人が乗り、ほかに各国の記者約120人が同行していた。
特別機は1979年2月1日午前9時前、テヘラン上空に達した。雪をかぶったアルボルズ山脈が来たに見える。機内が緊張した。
パーレビ国王は2週間ほど前に国外に出た。体制は崩壊寸前だった。だが、国王に忠誠を誓う軍は、「ホメイニの飛行機がテヘランに来たら撃墜する」と警告していた。
ホメイニ師側近で、革命直後にバザルガン内閣の外相を務めたエブラヒム・ヤズディはいう。
「外国人記者団を乗せたのは、実は王政派軍の攻撃を避けるための弾よけでした。パリで各国特派員の同乗を有料で募ったのです。欧米や中国、日本など、世界中の記者がいました。申し訳なかったが、弾よけだとはいいませんでした。おかげで軍は手を出してきませんでした」
着陸すると、師は乗員に支えられてタラップを降りた。足元がおぼつかなかった。ヤズディは明かす。
「実は黒衣の下に、重い防弾チョッキを着ていたのです。私がパリで用意しました。師は最初いやがりましたが、私が説得して着てもらいました。どこから撃たれるか分からない状況でしたからね。私と師以外だれも知らない話です」
テヘラン空港から市内に至る沿道には、数百万人の群衆が詰めかけた。熱狂した人々は師の車の前に次々に飛び出し、負傷者が続出した。
パーレビ国王の急激な近代化策でイラン社会は大きな混乱をきたす。生活苦に大衆の恨みの声が広がっていた。ホメイニ師の帰国はそうした人々から、伝説の救済者が出現したのだと受け止められたのだ。
当時のペルシャ湾岸は、米ソの2大勢力が牽制しあう地域だった。米国は、イランを湾岸の足場として確保するために懸命だった。
米国の後押しで近代化を図る国王は、大量の米兵器を購入し、米軍事顧問団に外交特権を与えるなど便宜を図る。国民の目には、それが米国のあやつり人形のように映った。
さらに国王は、大土地所有者であるイスラム聖職者から土地を取り上げたり、イスラム暦を廃止したりする政策を取った。イスラム色を薄める近代化策だった。
こうした近代化で、一部の層は石油マネーでうるおったが、伝統的な農村生活は崩壊にひんする。人口の都市流入がはじまり、都市貧困層がふくらんだ。社会不安が広がり、反体制運動が高まる。
国王はそれを秘密警察で抑え込んだ。秘密警察の監視や拷問は大衆の反感の対象となった。
78年に入ると、全土でストライキや反政府暴動が続発するようになる。国家機能は麻痺状態におちいる。ホメイニ師が帰国したのは、そのようなときだった。
10日後の2月11日、政府は崩壊し、革命は成功した。
     ・
革命前夜、ホメイニ師はフランスからイラン国民に向け、大量の政治メッセージを送った。送信作業をしたのは、パリの書店経営者アサマド・サラマディンだ。
「師がカセットテープにメッセージを吹き込む。それを電話口に密着させ、4倍、5倍の速さで送るのです。盗聴防止のためでした」
電話先はテヘランのほかシラーズ、イスファハンなど十数都市におよんだ。メッセージは元の速さに復元され、市場の電器店街でコピーされて手から手に渡っていった。
通信確保のため電話局だけはすとに加わるな」「あらゆる手段で王政を打倒せよ」・・・・。
フランスで発せられたホメイニ師の声がイランの農村に届くのに、6時間とかからなかった。国営放送よりはるかに早い。情報戦では完全に政府側をしのいでいた。
革命直後に起きた米大使館占拠事件は、解決まで444日もかかった。ホメイニ師はこの事件を「第2の革命」と呼び、「大悪魔・米国」との対決姿勢を強めた。
革命から10年目の89年には、「悪魔の詩」がイスラムを冒とくしているとし、英国の作家サルマン・ルシュディに死刑宣告を言い渡す。「話の通じないイスラム強硬主義者」・・・・。西側世界ではそんなイメージが定着した。
しかし家庭でも姿は少し違う。
次女のファリデ・ムスタファビ(59)に会った。コムで神学校の倫理学教師をしており、自宅でインタビューに応じてくれた。黒衣に黒のベールだった。
「父は最高権力者となった後も、母や、私たちに対してさえ。お茶を持ってこいとか何とか、いっさい命令したことはありません。夜中にお茶が飲みたくなったら、自分で入れていました。母がときどきドアを閉め忘れても、だまって立って自分で閉めました」
3女のザハロ・ムスタファビ(57)はテヘラン大学の講師だ。
「父は時間に厳格でした。日に20分ずつ、3回散歩しました。散歩から帰るのが予定より早かったりすると、玄関の外で足踏みして時間を調整していました」
以前、ザハロを国会議員にかつぐ動きがあった。ホメイニ師はそれには反対した。
「私の目が黒いうちは政治家にだけはなるな、といいました。それ以外、何も干渉しませんでした」
感情を表に出さなかった。長男のムスタファがイラクで国王の暗殺舞台に殺されたときも、まったく顔色を変えなかった。そのため、西側では冷血人間のようにいわれた。
「家ではそんなことはありませんでした。母や私たちが外出するときにはいろいろ心配し、あたたかい心づかいをする父親でした」
テヘランのモスクのわきに、晩年の家がそのまま残されている。
4畳半ほどの応接間には、本やいすが生前のまま並んでいた。床にあった合成皮革のサンダルは古く、つま先がはがれて少し口が開いていた、そのつつましやかな暮しがホメイニ師の生活哲学だった。
父から相続した4200平方メートルの農地は、イラン・イラク戦争の負傷者らに分け与えてしまった。
次女のファリデは「父は失うものは何もなかった。だから父は強かったのです」といった。
革命の翌年、イラン・イラク戦争が起きた。戦闘機やミサイルで攻撃するイラクに対し、イランは「聖戦」の名の下、人海戦術で応じた。新体制の最大の試練だった。
8年にわたる戦いでイランに多大の犠牲者が出た。しかしこの戦争はホメイニ師に有利に働いた。戦時体制が続く中でも与党イスラム共和党が権力を完全に掌握し、イスラム聖職者による統治体制を確立する。バニサドル大統領らリベラル派は次々に失脚した。
88年7月、師は、「毒を飲むよりつらい」といって国連の停戦決議を受託した。翌年5月、胃がんで入院し、6月3日精力を使い果たしたように死んだ。

                                          • -

ルーホッラー・ホメイニ Google 検索
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnso&tbm=isch&source=univ&sa=X&ei=bmijTZjnL8XVrQe6g6n5Ag&ved=0CBwQsAQ&q=%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%8B%E3%83%BC%20%E7%94%BB%E5%83%8F