じじぃの「人の死にざま_568_豊田・喜」

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1957年式トヨペットクラウン 動画 YouTube
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[CM] トヨタカローラ1100 動画 YouTube
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トヨタプリウス コマーシャル 動画 YouTube
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豊田喜一郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
豊田喜一郎は、日本の経営者、技術者、トヨタ自動車創業者。
トヨタ自動車工業、現・トヨタ自動車社長(第2代)、社団法人自動車技術会 会長(第2代)などを歴任した。
【来歴・人物】
愛知県名古屋市東区出身。
東京帝国大学工学部機械工学科卒業。卒業後、地元の名古屋に戻ると、当時は黎明期にあった自動車産業が大きく発展すると考えた喜一郎は、荒地だった挙母町、現・豊田市の土地を取得、自動車工場を建設した。それが現在のトヨタ自動車である。
愛知県豊田市の発展に大きく貢献した実績から、豊田市役所の広場には銅像が立てられている。

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朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
豊田喜一郎(とよだきいちろう) (1894-1952) 58歳で死亡 【執筆者】丹治吉順 (一部抜粋しています)
豊田喜一郎の乗用車づくりは、アメリカ車を徹底的にコピーするところから始まった。
1933年9月、豊田自動織機製作所の常務だった喜一郎は、米GMの最新モデル、33年型シボレーを買い込む。それを1つ1つの部品にまで分解し、本格的な研究と開発に乗り出した。
織機づくりには自信がある。鋳物のエンジンなど簡単にできると思っていた。ところが難航する。
エンジンのシリンダー部分は中空になっているものが多い。織機とはくらべものにならないほど複雑な形をしていた。鋳型で中空部分をつくるには「中子(なかご)」と呼ばれる粘土などの型を使うが、形が複雑すぎて型くずれを起こしてしまう。
中子に油を混入した「油中子」方式を採用した。ところが、油の混合が悪く、真っ赤に溶けた鉄が工場の天井まで噴き上がった。連日、噴出する溶鉄との格闘が続く。つくってはつぶしたシリンダーは500個を数えた。
34年、どうにかエンジンができる。喜一郎はそのエンジンを積んで毎日のように伊勢路を走った。
喜一郎はボンネットを開けたまま車を走らせ、窓から体を乗り出し、「もっとスピードを出せ」といいながらエンジンの様子を見ていた、と当時の部下が書き残している。
試作車第1号のA1型が完成したのは、自動車づくりに着手して2年近くたった35年5月だった。
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自動車の将来を確信したのは23年の関東大震災だった。
災害復興のため、東京市は急遽(きゅうきょ)米国から、フォード製トラックのシャーシー800台分を緊急輸入し、バスに改造した。いわゆる「円太郎バス」だ。それは市民の足として、急速に全国に広まっていく。
「これからは自動車の時代だ。だれもが乗れる大衆車で、日本の道をいっぱいにしてみせる」−−。喜一郎はそう思い定めた。
当時の日本の自動車保有台数は約1万5000台。大半が輸入車だった。現在の7000万台余にくらべればゼロに等しい数だ。幹線道路すら多くが未舗装で、民間の主な輸送手段は大八車や馬車だった。
そんな時代に自動車産業を興そうなどというのは、夢想家が考えることだ。幹部社員がこぞって反対した。喜一郎の妹婿で、当時の社長だった豊田利三郎はいさめた。
「自動車は三井や三菱でさえあきらめたほどの難物だ。豊田のような新興企業が手を出したら、えらい目にあう」
喜一郎はこう答えたという。
自動車産業をつくり上げるために自分が豊田財閥をつぶしても、おやじは文句をいうまいよ」
トヨタ自動車工場の3代目社長を務めた故・石田退三によると、自動車づくりは父・佐吉の遺志でもあったらしい。
佐吉は、喜一郎より10年前に欧米旅行をしている。帰国してから「自動車、自動車」と口癖のようにいいはじめた。
佐吉は、遅れた日本の工業にいたたまれず、織機の開発に心血を注いだ。その佐吉が、次代の工業としての自動車開発の夢を、長男の喜一郎に託した、というのである。
喜一郎の腹心の部下でトヨタ自工会長を務めた故・斎藤尚一は、「喜一郎さんと仕事以外の話をしたのは2回ぐらいしかない」と振り返っている。当時の幹部たちも、「雑談めいたことは一度もしたことがなかった」と口をそろえる。それほど寡黙な男だった。
最初はだれにも打ち明けず、自動車づくりの準備に入った。
織機製作には不必要なほど精度の高い工作機械や、最新鋭の電気炉を購入し、工場の技術者たちに使わせて扱いを慣れさせた。その上で利三郎を説得したのである。
そんな喜一郎に追い風が吹いた。陸軍が、国産自動車の量産を進めることを決めたのだ。
当時、陸軍は4トントラックが主体だったが、ぬかるみの多い中国東北部では使い物にならない。そこで28年、フォードやGMの1トントラックに切り替えた。優秀だったが、今度は部品の調達に悩まされた。
車体の軽いトラックを、部品をふくめてすべて国産し、民間に普及させる。有事の際にはそれを軍が徴用する−−。
軍主導の「自動車製造事業法」は36年公布された。試作車A1型ができた翌年である。自動車製造を国の許可事業とし、生産は日本の会社に限る。部品もすべて国産とする、という主旨だ。
最初に許可を受けたのはトヨタと日産だった。37年、トヨタ自動車工業が設立される。社長は豊田利三郎。喜一郎は副社長に就任した。
翌38年、愛知県挙母町(現。豊田市)に、200万平方メートルの工場が完成した。月産で乗用車500台、トラック1500台を生産できる大工場だ。洋行から17年がたっていた。
41年、社長に就任する。しかしその年、太平洋戦争が始まった。物資が不足し、乗用車の生産は禁止されてしまう。つくれるのはトラックだけだった。「だれもが乗れる乗用車をつくる」という喜一郎の夢は壁にぶつかった。
45年、敗戦。こんどこそ乗用車をと思うが、戦後不況には太刀打ちできなかった。車は売れず、給料の遅配が続いた。
このころ、日暮れどきになると、名古屋駅の東口広場に30人ほどの男たちが集まってきた。みんな手ぬぐいやふろしきでほかむりをし、顔を隠している。
給料の出ない彼らは、工場でなべやかまをつくって駅前で売り、家族を養っていたのだ。
工場には赤旗がはためき、労働歌があふれた。2ヵ月の争議の後、2100人が退職し、喜一郎は50年、責任を取って社長を辞任した。
20日後、朝鮮戦争が始まる。トラックの注文が殺到し、トヨタは息を吹き返す。喜一郎のタイミングは、いつも時代とひとつ外れた。
52年、社長復帰を要請された1ヵ月後、脳出血で急死した。
本格的乗用車トヨペット・クラウンが完成したのは死後3年たった55年元旦。それから始まった大衆乗用車の黄金時代を、喜一郎はついに目にすることがなかった。

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