じじぃの「人の死にざま_543_中江・藤」

中江藤樹 - あのひと検索 SPYSEE
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近江聖人中江藤樹記念館
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中江藤樹 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
中江藤樹は、近江国滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。諱は原(はじめ)、字は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した。
【経歴】
農業中江吉次の長男として誕生。9歳の時に伯耆米子藩主加藤家の150石取りの武士である祖父・徳左衛門の養子となり米子に赴く。1617年(元和2年)米子藩加藤貞泰伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)祖父が死去し、家督100石を相続する。
1648年(慶安元年)藤樹が41歳で亡くなる半年前に郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)に「藤樹書院」を開き、門人の教育拠点とした。その説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商工人まで広く浸透し「近江聖人」と呼ばれた。代表的な門人として熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔などがいる。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
中江藤樹 (1608-1648) 41歳で死亡。 (一部抜粋しています)
肖像画をみると、豊肥の相をしているが、40歳の若さで死んだ。平生喘息(ぜんそく)持ちだったというが、死に至る病名不明。とにかくこの年齢で死んで「近江聖人」の名を残したのはエライ。
死ぬときに、「私のあとをつぐ者はだれもいないのが悲しい」といった。桜美林大学を創立した清水安三によると、藤樹は「隠れ切支丹(キリシタン)」であったという。
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まあ我田引水の怪説だろう。

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中江藤樹 Google 検索
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