じじぃの「人の死にざま_538_G・クリムト」

グスタフ・クリムト - あのひと検索 SPYSEE
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Gustav Klimt 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=DDZXUPi-6OQ
The Art of Gustav Klimt 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9aTZ9hHCWok&feature=related
白樺のある風景 画像
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クリムト作 「接吻」

クリムト作 「ダナエ」

松下奈緒「接吻」〜黄金の画家クリムトとウィーン1900年〜』 2017年6月4日 BSフジ
【ナビゲーター】松下奈緒
ヨーロッパを代表する芸術の都ウィーン。19世紀末この都を中心に花開いた新たな芸術の波は驚きと共に世界を魅了した。その中心にいたのが「愛の画家」「黄金の画家」と呼ばれた天才グスタフ・クリムトと仲間の天才たち、建築家ワーグナーや作曲家マーラー、後輩エゴン・シーレだった。
番組では、世紀末美術の世界に革命をもたらしたクリムトの華麗な作品を軸に芸術の都ウィーンを旅し、美術・音楽だけでなく建築や工芸等様々に幅広い分野へと広がるウィーン世紀末芸術の豊かな魅力を紹介する。
実は「分離派(ゼセッション)」「アール・ヌーヴォー」とも呼ばれるウィーン世紀末芸術には、意外な日本との関わりもあった。それが当時ヨーロッパを席巻していた日本趣味「ジャポニスム」。クリムトが傑作に忍ばせた様々な日本のデザイン・意匠や、自身が集めた驚くべき日本の美のコレクションを発掘し紹介する。また、遺族に受け継がれた未公開ヌードデッサン群も日本初紹介する。
クリムトの独特な平面的・装飾的画法は、浮世絵だけでなく日本の着物などからも学んだものといわれていて、実際彼は日本の着物や衣装や家紋などもコレクションしていた。
http://www.bsfuji.tv/matsushitanao/pub/004.html
日曜美術館 「クリムトの誘惑 〜生誕150年 ウィーンの春〜」 2012年4月8日 NHK Eテレ
【出演】結城昌子さん(アートディレクター)
世紀末のウイーンで活躍した画家、グスタフ・クリムト(1862〜1918)。女のエロティシズムを金色で覆うその豪華けんらんな絵は高い人気を誇り、代表作「アデーレ・ブロッホバウアーの肖像」は3年前、史上最高額155億円の値がついた。
クリムトの最大の特徴は、黄金の装飾美。ルネサンス以降の西洋絵画にあまり使われていない黄金を、クリムトはなぜ使うようになったのか?黄金をちりばめたビザンチン美術の影響か、あるいは世紀末ウイーンで流行したジャポニスムの影響か、黄金の由来を探る。
クリムトが黄金で包み込むのは、女性である。あられもないヌードで、目を閉じてこうこつの表情を見せる女の姿は、当時世間のひんしゅくを買い、時に展覧会から撤去された。特に妊婦のヌードをあからさまに描いた「希望I」は長く公開を禁止された。世間から恥知らずとひぼうされてまで、クリムトは、なぜ、女性美にこだわり続けたのか?
番組では、黄金を駆使したクリムトの絵の由来をドキュメントするとともに、タブーを無視して挑発的でエロティックな女性美にこだわり続けたクリムトの反骨ぶりを描く。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2009/0628/index.html
グスタフ・クリムト ウィキペディアWikipedia)より
グスタフ・クリムトは、帝政オーストリアの画家。
【生涯】
グスタフ・クリムト1862年にウィーン郊外のバウムガルテンに生まれた。父エルンストはボヘミア出身の彫版師、母アンナは地元ウィーン出身であり、クリムトは7人兄弟の第2子であった。
1879年にクリムトは弟エルンストおよび友人のフランツ・マッチェと共に共同で美術やデザインの請負を始めた。ウィーンの美術史美術館の装飾の仕事などを行っている。
1945年にインメンドルフ城において、親衛隊が撤退する際の放火により没収された他の作品と共に焼失している。
この事件をきっかけとして保守的なウィーン美術家組合を嫌った芸術家達によって1897年にウィーン分離派が結成された。分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループであり、クリムトが初代会長を務めている。分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たした。
写実派と様式派による対立、国からの補助金停止などが重なり、クリムトとその同士は1905年に分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成した。
後にウィーン工房によるストックレー邸の壁画制作などを行い、上流階級の婦人たちの肖像画を多く手がけた。1910年代には作品も少なくなり、金箔などを用いる装飾的な作風から脱却していった。1918年、ウィーンで脳梗塞と肺炎により死去した。
【作風】
女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描くクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられる(若い娘の遺体を描いた作品もある)。また、「ファム・ファタル」(宿命の女)というのも多用されたテーマである。『接吻』に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出している。

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『一冊でわかる絵画の楽しみ方ガイド―印象派写実主義から抽象絵画シュルレアリスムまで』 太田治子/著 成美堂 2005年出版
クリムト(1862-1918) (一部抜粋しています)
ウィーン郊外で銅版彫刻師の家に生まれる。美術学校在学中から宮殿内部の装飾画など大規模な仕事を手がけ、早くから注目される。しかしエロスや死をテーマにした斬新な作品が激しい非難を浴びるようになり、クリムトは仲間とともに反体制的芸術組織「ウィーン分離派」を結成。30代後半からは、貴婦人たちの肖像画を多数制作して好評を博す。生涯を通じて結婚はしなかったが、愛人エミリー・フレーゲとは深い信頼関係にあった。亨年55歳。
接吻 Der KuB
愛と性をテーマにした、クリムト芸術の州大性といえる傑作。作品は発表と同時に政府に買い取られ、大衆の熱狂的な賞賛を得た。
画面を占めるのはおびただしい量の金箔で、むせ返るほどの装飾。一方、男女の顔や手足は非常にリアルだ。男性に身をゆだねる女性の表情は官能的だが足元は崖。まるで生と死が背中合わせだと告げされているようだ。
この一見アンバランスな組み合わせが、作品をいっそう魅惑的にしている。

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グスタフ・クリムト Google 検索
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