じじぃの「人の死にざま_530_サド」

マルキ・ド・サド - あのひと検索 SPYSEE
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MArquis de Sade 動画 YouTube
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Le Marquis de Sade 動画 YouTube
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マルキ・ド・サド フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
マルキ・ド・サドは、フランス革命期の貴族、小説家。
サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリの刑務所と精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1ヵ月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄に1年、そしてシャラントン精神病院に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものである。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。
【所有権と相続人】
「復活祭の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」、「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」等の不品行のかどで何度か投獄され(マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決が出ている)、獄中にて精力的に長大な小説をいくつか執筆した。それらは、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもある。だが、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、19世紀には禁書扱いされており、ごく限られた人しか読むことはなかった。サドはフランス革命直前までバスティーユ牢獄に収監されていたが、革命の影響で1790年に釈放される。だが、政治活動を行うも再び投獄された。後にナポレオン・ボナパルトによって「狂人」とされ、1803年にシャラントン精神病院に入れられてそこで没した。
サドの作品は、作者の精神状態を反映してか特に暴力的な描写において文法的に破綻を来してしまっているようなところが数多いが、20世紀に入ってから、そういった点がシュルレアリストたちによって再評価され、全集の出版が行われることになる。日本には木々高太郎式場隆三郎田辺貞之助丸木砂土こと秦豊吉遠藤周作澁澤龍彦、片山正樹たちによって紹介された。澁澤による『悪徳の栄え』の翻訳出版を巡って引き起こされた悪徳の栄え事件は、澁澤側の有罪(罰金刑)を以て終わった。
悪徳の栄え
ジュリエット物語あるいは悪徳の栄えとは、マルキ・ド・サドによって書かれ、1797年から1801年に出版された小説である。「新ジュスティーヌあるいは美徳の不幸」と対をなす作品である。この小説を書いたことによって、サドはナポレオンの命令によって逮捕され、シャロントン精神病院に13年入れられ、そこで獄死することとなった。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
サド侯爵 (1740-1814) 74歳で死亡 (一部抜粋しています)
地球上にサディズムの名をひろめたサド侯爵は、その背徳の罪によりいくどか逮捕、逃亡を繰返し、38歳のときついにヴァンセンヌの牢獄に収容され、さらにバスティーユ牢獄に移されたが、50歳のときフランス大革命のおかげでようやく釈放された。
革命後『ジュスティーヌ』その他の作品を発表し、ちょっとした流行作家となったが、3年後、反革命の罪でまた逮捕され、1年ばかりで釈放されたものの、以後窮乏のどん底に落ちた。
61歳のとき『新ジュスティーヌ』がワイセツ書として作者たるサドも逮捕され、以後死にいたるまで、シャラントン精神尿院から出ることを許されなかった。そのころサド侯爵は怪物的に肥満した豚のような老肉塊と化していたが、1806年1月30日、遺言書を書いた。
「いかなる口実のもとであろうとも、私の遺体は絶対に人に見せてはならない。遺体は木の棺に入れ、ふたに釘を打たず、私が死んだ部屋に48時間安置しておき、48時間経過したら釘を打ってもよい」
彼は、「早すぎる埋葬」を怖れたのである。
「遺体は、レガリテ通り101番地の材木商ル・ノルマン氏2輪馬車で、エマンス市のエベルノン近くにある私の所有地の森に運んでもらいたい。森の中の広い道を古城のそばから進むと、右側に雑木林がある。その林の中に、儀式は一切とり行わずに私の遺体を埋葬して欲しい。墓に土ををかぶせたなら、その上に樫(かし)の実をまき、そこにふたたび木が芽生え、墓の上に雑木林がもと通り生い茂り、地上から私の痕跡が消え去ることを願う。そして、あらゆる世人の記憶から私の名が抹消されることを望む」
8年後の1814年12月2日、74歳のサド侯爵は、自分の不当な運命を呪いつつ、喘息性肺栓塞のため、死んでいった。
彼の望みに反し、彼の名は永遠に残った。

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