じじぃの「世界遺産・処女ミイラとともに眠る至宝・マチュ・ピチュ!世界史の迷宮」

マチュピチュ全容 動画 YouTube
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マチュピチュ 新しい驚異の世界 動画 YouTube
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マチュピチュ Google 検索
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古代文明ミステリー 「たけしの新・世界七不思議7 前哨戦スペシャル」 (追加) 2012年9月21日 テレビ東京
【MC】ビートたけし 【進行】松丸友紀テレビ東京アナウンサー) 【パネラー】吉村作治荒俣宏 / 萬田久子宮崎香蓮 【レポーター】ペトラ遺跡:趙萊和 /アダラジ・ヴァヴ:中田あすみ
今から2000年前にギリシャの数学者にして旅行家フィロンが「世界の7つの景観」を選んだ。
「たけしの 新・世界七不思議」では、2007年から毎年正月に、現代の“フィロン”たけしと日本を代表する賢人たちが、“21世紀の世界七不思議”を決定してきた。これまでに、6つの“新世界七不思議”が選ばれた。その6つとは…
標高2400mのアンデスの尾根に忽然と姿を現す天空の都マチュピチュ。15世紀から16世紀にかけてインカ帝国の都として栄えたマチュピチュが発見されたのは20世紀に入ってからだった。1911年7月、エール大学の助教授だった学者が発見し、そこは謎に包まれたミステリアスな遺跡だった。
学者はマチュピチュにあった1つの遺跡を太陽神殿、他にも主神殿など遺跡にそれぞれ名前をつけたという。インカは高い技術を持っており、特に水の技術は素晴らしく遺跡全体に水が行き渡るように水路が設計されている。
なぜ山の頂きに神殿都市を築いたのか。その謎を解くのが神殿部の一際高い場所にあるインティファタナと呼ばれる石で、太陽をつなぎ止める石とされていた。かつてここは水により大被害が起きたとの神話があり、石によって太陽と繋ぎ止めることで水による大災害が起こらないことを祈っていたとみられている。
マチュピチュには最大のミステリーが隠されており、人々は忽然とこの場所から姿を消した時期があった。マチュピチュに暮らしていた人々はこの都市に火をつけ、聖なる場所をスペイン人にからによる侵略を防いだためだとされている。
http://www.tv-tokyo.co.jp/nanafushigi_sp/
マチュピチュ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
マチュ・ピチュ(Machu Picchu)は、ペルーのウルバンバ谷に沿う高い山の尾根(標高約2,057m)に位置する、よく保存されたインカの遺跡。「マチュ・ピチュ」はケチュア語で「老いた峰」を意味する。山裾からはその存在を確認できず、しばしば「空中都市」「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと呼ばれる。
この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。
ハイラム・ビンガムの遺跡発見】
イェール大学の歴史家であるハイラム・ビンガムは、1911年7月24日、この地域の古いインカの道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見した。
1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽の処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。
【最近の研究成果】
ビンガムは、同行した骨学者に「出土した骨は女性の骨が大半だった」との誤った報告を受けていた。チュレーン大学の自然人類学者ジョン・W・ヴェラノ(Dr.John W.Verano)の新しい研究で、骨は男女同じ比率であったこと、多くの家族と幼児が生活していたこと、また処女たちの共同生活を示すようなものはなかったと報告している。骨の分析では、結核寄生虫のケースが見られ、また、トウモロコシの食生活による歯の損傷も見られるものの、ほとんどは大人で50歳以上の年寄りが多くおり、その結果ここでの生活はかなり健康的であったと判断された。また、骨には戦いの形跡は見られず、平和な生活をしていたと考えられる。幼年期に頭部に巻きつけられたもので頭部の変形しているものがあり、ある者は海岸地域やあるいはチチカカ湖方面からと地域によって異なる文化があったことがわかっており、遠方からやって来た職人たちであろうと推定された。高度な石積みの技術が必要なため、職人たちが呼ばれたと考えられている。王族がマチュ・ピチュで死亡した場合は、そこで埋葬されるよりもクスコに運んで埋葬されたと考えるのが妥当と結論づけられた。
カリフォルニア大学バークレー校のジャン・ピエール・プロツェン(Dr.Jean-Pierre Protzen)建築学教授は、石垣をぴったりと重ねて積む方法は石で石を叩いたり、削ったりしたと考えている。この方法を敲製(ペッキング)という。あらかじめ大きく割った石を、小型の叩石(ハンマー)で連続してトントンと細かく叩いて表面をならしてゆく方法である。この方法は、すでにプレ・インカ(インカ期以前の古い時期)から行われていたことがわかっている。 当時巨石文明が世界各地で見られ、その運搬手段は解明されつつあったが、マチュ・ピチュの場合は傾斜路を造る余地がないため、どうやって5-10tもある巨石を運び上げたかはまだ謎であるとしている。また、「ビンガムの発掘ノートは、何を発掘したかよりも何を食べたか、の記述が多かった」とも公表された。
最近の調査では、地下から焼けた跡が発見されたことなどから、スペイン人による侵略を恐れて住民が町を焼き払った、という説が研究者から指摘されている。
【人口は最大でも750名】
この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や、田舎の別荘といった種類のものであった。
遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。マチュ・ピチュには最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時の住民は、ほんの一握りであったと推定されている。
この都市はインカの王パチャクティの時代の1440年頃に建設が着手され、1532年にスペイン人により征服されるまでの約80年間、人々の生活が続いていた。
【神をまつる神殿としての役割】
急斜面に位置したマチュピチュの頂上には、太陽の神殿があり、頂上にはインティワタナ(太陽をつなぎ止める石)が設置されている。夏至冬至が正確に分かる窓があるなど、太陽を使った暦を観測、作成したとも言われている。
インカの神は日本やエジプトと同じく太陽神であるため、太陽により近い山の頂(いただき)は儀礼場として適当だった。 神殿の畑など耕作地で栽培された農作物は神への供物として栽培されていたか、神が人間に下賜されたものとして人々に食べられたか、いずれにしても宗教儀礼的意味が色濃く反映されている。そのようないきさつから、現在、マチュピチュは宗教都市として捉えられている。
なおインカの人々にとっての神は、太陽とともに月も挙げられ、多くの遺跡には太陽神殿と月の神殿が対で祭られている。マチュ・ピチュの太陽神殿に対しては、ワイナ・ピチュ(「若い峰」という意味で、マチュ・ピチュの背後にある尖った山)の裏手に、月の神殿が洞窟に作られている。

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世界遺産ライブラリー [マチュピチュ] NHK世界遺産
南米アンデスの山中、2400メートルの断崖の上にこつ然と現れるマチュピチュは、「空中都市」とも呼ばれています。大広場を中心に石組みの建造物が狭い石畳の道や階段で結ばれ、周囲は高さ5メ−トルほどの石積みの壁で囲まれています。誰が、何のため、この山中に整然とした都市を築いたのか? 過去にも様々な解釈がされてきましたが、正確な事は分かりませんでした。
「シリーズ世界遺産100」では、最新の研究結果から、マチュピチュの謎に迫ります。米エール大学での研究では、出土した人骨や品物からマチュピチュでは争い事がなく、人々は平和で健康的な暮らしを送っていたことが明らかになりました。また文献から、マチュピチュを建設したのは、15世紀のインカ帝国で絶大な力を持っていた皇帝であることを突き止めました。遺跡の要所には、最高神である太陽の位置を観測する装置が設置されています。神殿も太陽の動きを知る造りになっています。周囲の山々も神聖なる場であり、マチュピチュからは山の頂きが全て見渡せるようになっています。これらの事からマチュピチュは、皇帝が太陽から暦を作り、太陽に祈りを捧げる儀礼の場であったと考えられるようになりました。インカ帝国が神聖な場所に特別に築いた宗教都市、それがマチュピチュだったのです。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards139.html
『世にも恐ろしい世界史の迷宮』 桐生操/著 PHP研究所 1999年発行
100人の処女ミイラとともに眠る至宝−太陽神殿マチュ・ピチュ (一部抜粋しています)
1911年、探険のためにペルー奥地に足を踏み入れた、アメリカのイェール大学教授で考古学者のハイラム・ビンガム博士は、ある日、不思議な少年と出会った。少年は博士に、自分はインカ王族の子孫だと名乗り、
「よろしければマチュ・ピチュの遺跡にご案内しましょう」
と、言いだしたのだ。
博士はそれを聞き、冗談を言っているのかと思って笑った。マチュ・ピチュの遺跡とは、インカのいい伝えにある、アンデスの山中深く眠る廃墟だというが、当時はどの学者も幻の廃墟だと、実在を否定していたからである。
が、それでも少年が断固として言い張るので、教授は少年の熱心さと、その不思議な魅力に惹かれ、ついに、案内してもらうことにした。
少年の後をついていくことは容易ではなかった。目の前には6000メートル級の山々がそびえ、どこまでも絶壁と氷河だけが続く。それこそ、何度諦めて引き返そうとしたかわからない。少年が自分をからかっているのではないかと、何度自問自答したことだろう。しかし、数日後にようやく山脈を超えた時・・・。
「あそこにみえるのがマチュ・ピチュの遺跡です!」
と、少年が遥か彼方を指した。その方向を見た博士は、思わずあっと息を呑んだ。美しい氷河の果ての、そびえ立つ高峰の頂きに、なんと古い都の跡が幻のように輝いているではないか!
博士が興奮で胸を震わせながら少年に導かれて堀を渡り、荒々しい砦をよじ登り、ついに都の中心にたどり着くと、そこにはインカの首都クスコのものとそっくりの巨大な"太陽の神殿"がそびえ立っていたのである・・・。
だが、それだけではなかった。博士と少年が神殿の扉をこじ開けて入ってみると、奥まった1室には、なんと黄金の神像を囲んで、美しい100人の処女たちのミイラが横たわっていたのである。
処女たちはみな、真っ白な花嫁衣装のようなものを着ていた。ある者は恍惚とした微笑を浮べ、またある者は恐怖に顔を歪めて、互いにしっかり抱き合うようにして横たわっていた。
ただ呆然とその場にたたずむ博士に、少年は囁いた。
「"太陽の処女"たちは、インカが滅びたとき、地下の間道を通ってこのマチュ・ピチュに逃れ、神の救いを求めて全員が自ら生け贄になったのです」
「なんということだ。では、言い伝えは本当だったのか? それで、噂に高い神殿の秘宝はどこだ?」
だが、少年は寂しげに微笑した。
「神殿の秘宝はここにはありません。それはもっともっと南の、チチカカ湖の湖底の泥深くに沈められて、永久にだれにも引き上げることはできないのです」
そう言うと、少年は博士に一礼して軽々と氷河を乗り越え、峰を駆け登り、やがてその姿はアマゾンの原始林の彼方に消えてしまった。博士はその後ろ姿を、ただ見送るだけだった・・・。
15世紀、アンデスのインカ文明は、すでに超高度文明を築いていた。最盛期の人口はざっと1100万人。家々はみな、水洗トイレやリビング。キッチンのついた高層耐火建築だった。
街の中央には官庁や学校や病院が立ち並び、そこから見事な舗装道路が四方八方に伸びていた。
宗教建築には太陽神のシンボルとして、豪華な黄金が豊富に使われていた。首都クスコで最大の建物である太陽神殿は、内壁も外壁も黄金板が張り巡らされ、屋根も金糸で美しく飾られていた。
神殿中央の裁断には、分厚い黄金の円盤をかたどった太陽像が安置され、両側には歴代皇帝のミイラが、生前そのままの姿で黄金の椅子に座っている。神殿の奥には中庭を囲む聖堂があり、各地から献上された金銀財宝が納められていた。
中庭にはトウモロコシ畑や噴水があった。地中に埋め込んだ黄金のパイプを通して水が引かれており、インカの皇妃たちは結婚式の前に身を清めるため、ここで沐浴したのである。
神殿の外側には「黄金の庭園」があり、花や樹木、鳥や爬虫類、動物など、そのすべてが黄金で作られていた。咲き誇るバラは、真紅のルビー、果実は巨大なエメラルド、さらに砂金のうえに植えられたトウモロコシは純金の塊。
そして丘の上の太陽神殿では、100人の美しい処女たちが、香料風呂で身を清め、いずれ神の生け贄になるのを待っていた。アクヤクーナと呼ばれる、いずれも帝国きっての美女たちである。
彼女たちはアクヤクワシと呼ばれる一種の修道院に入れられ、糸つむぎ、機織りから宗教儀式まで、神の祭祀に必要なあらゆることを教えられた。成長すると、首都クスコでインカ皇帝に拝謁し、審査を受けて「太陽の処女」となり、太陽神殿で神に仕えることとなる。
彼女たちは太陽の処女だから、太陽と同格の皇帝のほかは、その肉体を愛することはできない。美しい順から皇帝のお呼びがかかり、一夜、その肉体で皇帝をなぐさめる。そしてその聖なる任務を終えると、翌朝、正式に太陽神に嫁入りするのだ。
王宮の前にある高い石の台に、夜伽(よとぎ)をすませた娘が、全裸の身を長々と横たえる。その肉体が太陽神に捧げられようとしているのである。国土の平安守り、太陽神の怒りを鎮めるための儀式だ。
石の上に横たわり、光栄の一瞬を心待ちにしている娘の胸に、神官の持つ石の刃が降り下ろされ、左乳房の下を裂き、まだ動いている心臓を取りだす。若い娘の心臓を、太陽神は最も好むのだ・・・。
これらの話を伝え聞いたヨーロッパ人たちは、なんとかインカ帝国を征服して、光輝く黄金を手に入れようと思いたつ。このときから世界史上最大の悲劇、インカ帝国の滅亡が始まったのである。
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1531年1月20日ピサロは180人の兵士と37頭の馬を3隻の帆船に分乗させて、いよいよインカ帝国に向けて出発した。ボロ船で大西洋を横断、パナマから南下したが、途中で野エクアドル沖で遭難の憂き目にあった。
わずかな食料、衣類、武器とともに岩島に流れ着いた後は、ジャングルを剣で切り咲き、木の根をかじって進む強行軍だった。彼らを支えたのは、先住民から買い取った怪しげな地図と、ジャングルの果てに夢にまで見た黄金の国があるといういい伝えだけだった。
1年半後、悪運強い一行は、飢えや病に苦しみながらも、ジャングルの南端に到着、そこには深い谷の向こうに黄金の塔がそびえたち、遥か彼方にそびえる白銀の峰々まで、舗装された立派な道路が伸びていた。
ピサロと180人の無法者たちは、インカ帝国を目指して1532年9月、いよいよアンデスの急峻な西斜面を登りはじめた。悪路と疫病に苦しみながら、彼らが約1ヵ月後にたどり着いたのが、カハマルカの町である。
時のインカ帝国アタワルパは、一行が近づいてくることを、すでに逐一報告を受けていた。
だがこのとき、王位をめぐる異母兄ワスカルとの戦いを制したばかりのアタワルパ王は、首都クスコに近いカハマルカの温泉で戦いの疲れを癒していたのである。彼にとって、広大なタワンティンズユの片隅を進むわずか180人のスペイン人など、とるに足らないものに思われた。
1532年11月15日、カハマルカの町に入ったピサロ一行と、郊外に陣を張るアタワルパ王の間に慌ただしく使者が往復した。
王のもとから帰ってきた使者の報告は、ピサロの一行を恐怖させた。何より彼らを怖れさせたのは、4〜5万と推定される統制のとれた軍隊だった。
実のところピサロの一行の中に、職業軍人は数人しかいなかった。ピサロが故郷トルヒーリョで募集した、戦いの経験のほとんどない20歳そこそこの食いつめ者がほとんどだったのだ。
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ピサロら数人は一直線にアタワルパ王の奥に駆けつけ、彼を引きずり下ろす。逃げまどうインカの親衛隊と追いすがるスペイン兵らで、広場は地獄と化した。
虐殺から逃れようとインカ兵が広場の出口に殺到し、彼らの圧力で広場を囲む壁は押し倒された。町の外に逃れでるインカ兵を追って、スペイン兵が死体の山を越えて追いすがる。
わずか半時間ほどの戦闘で、数千人のインカ兵が命を落としたのに比べ、スペイン兵は無傷だった。王が捕らえられたことで、中央アンデスの広大な地域は、今や完全にピサロ一行に握られてしまった。
わずか180人の無法者が数万人のインカ軍をあっという間に打ち破ったというのは信じられない話だが、実は理由はごく簡単である。インカ人はそれまで、馬も鉄砲も見たことがなかったのだ。
彼らは馬に乗って攻めてきたピサロ軍をてっきり神だと信じ、初めて聞く銃声に怯え、自分たちの銀や銅の剣が鉄の剣でぼろぼろになるのを見て、総崩れになってしまったのである。
さらに致命的だったのが、「創造主ビラコチャがいつか帰ってくる」というインカの古いいい伝えが存在していたことである。ビラコチャとは、太陽や月やインカ帝国を作った白い肌の神のことで、まさに、この年に帰ってくると予言されていた。したがって、ピサロの軍がそれと勘違いされたのも、無理もないことだったのである。
一方、アタワルパ王は身代金の支払いをピサロに申しでた。彼が申しでたのは、自分の命と引き換えに、今自分が閉じ込められている部屋いっぱいの黄金を与えるという条件である。さっそく国中から金銀を持ったインカ人らが町を目指して集まってきた。
黄金の盃、神像、装身具、胸当て、家具などが次々と集まり、有頂天になったスペイン人らは、これを溶かして延べ棒にした。たちまち5X7メートルの部屋は、総量3トンもの黄金で満たされた。最低に見積もっても116万ペソ、現在の金額にして、約100億円は下らない量の黄金である。
だが、残忍なピサロは黄金だけ横取りすると、さっさとアタワルパ王を縛り首にしてしまった。その直後、ピサロの一行は「太陽の処女」たちが集まっているはずの太陽神殿に突進したが、奇妙にも処女たちの姿はなく、神殿の床や壁に張られた黄金やダイヤも、すべて剥ぎ取られていた。
ピサロの一行は地団太を踏んで悔しがり、住民を虐殺して王宮や町並みを焼き払い、ありったけの宝物を略奪した。
かくて数百年の栄華を誇ったインカ帝国は、たった1年であっけなく滅びてしまったのである。
その後、インカ帝国はスペインの植民地となり、ペルーと名づけられた。が、太陽神殿の宝物と処女たちの行方は不明のまま今日に至っている・・・。

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どうでもいい、じじぃの日記。
ネットで「世界遺産ランキング」をキーにして検索すると一度は行ってみたい世界遺産の旅行ランキングの第1位が「マチュ・ピチュ」だ。
桐生操著『世にも恐ろしい世界史の迷宮』に「100人の処女ミイラとともに眠る至宝−太陽神殿マチュ・ピチュ」が載っている。
パラパラ本をめくって、面白そうと思える記事の中で「100人の処女ミイラ・・・」は一番先に目に飛び込んできた。
今から約5000年前、南米ペルーにリマから北に200キロ行った中央高原にピラミッドをいただく都市遺跡があった。
このピラミッドの遺跡は「カラル遺跡」と呼ばれている。
このカラル遺跡からインカ文明の特徴の1つといわれている紐に結び目を付けて数を記述する「キープ」が出土した。
インカ文明は文字を持つことがなかった。また、古代からずっと鉄器文明に到達しないで、新石器時代のまま過ごしている。他の文明と接触しないで、独自の文化を発展してきた。
彼ら、インカ文明は我々に何を残したのであろうか。
巨大な巨石。巨石と巨石を寸分のすき間なく積み重ねる技術。正確な季節を表わす太陽暦を作った。
彼らが栽培に成功し、今我々の食事になくてはならない植物、ジャガイモ、とうもろこし、カボチャ、トマトは彼らが作り出したものだ。
インカ帝国は1532年、ピサロによって滅ぼされた。
「インカ人はそれまで、馬も鉄砲も見たことがなかったのだ。彼らは馬に乗って攻めてきたピサロ軍をてっきり神だと信じ、初めて聞く銃声に怯え、自分たちの銀や銅の剣が鉄の剣でぼろぼろになるのを見て、総崩れになってしまったのである」
巨大なインカ帝国はたった180人のスペイン人によって滅ばされたのである。
このインカ帝国は鉄砲という文明の利器に敗れたのだった。このことはいかに科学技術の優劣が国の優劣に関係するかを暗示しているように見える。
「100人の処女ミイラ・・・」はどこからきたのだろう。
「女たちを生贄にしたといわれてきた台座上の遺構もやはり太陽を観測するものであり、インティワタナ(太陽をつなぐもの)という意味の石の台の削りだされた柱は、一種の日時計だったと考えられている。骨は男女同じ比率であったこと、多くの家族と幼児が生活していたこと、また処女たちの共同生活を示すようなものはなかったと報告している」
イェール大学教授の考古学者ハイラム・ビンガム博士も罪な人だ。
人を喜ばせておいて・・・。