じじぃの「人の死にざま_504_チャーチル」

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Churchill's "Iron Curtain" Speech 動画 YouTube
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Winston churchill "finest hour" 動画 YouTube
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ウィンストン・チャーチル フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルはイギリスの政治家。1940年から1945年にかけてイギリス戦時内閣の首相としてイギリス国民を指導し、第二次世界大戦を勝利に導く。大戦終結後に再び首相となる。
彼の家名(ファミリーネーム)は単に「チャーチル」と呼ばれることが圧倒的に多いが、正式には「スペンサー=チャーチル」という複合姓(二重姓)である。フランクリン・ルーズベルトダグラス・マッカーサーとは遠戚関係にある。
2002年、BBCが行った「偉大な英国人」投票で第1位となった。
【生涯】
1874年11月30日にオックスフォードシャーウッドストックのブレナム宮殿に生まれる。
1911年、チャーチルは海軍相となり、在任のまま第一次世界大戦を迎えた。
1929年に、保守党が選挙に敗北した後は再び政権から離れ、1931年に発足したラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣にも入閣しなかった。この不遇の時期、彼は先祖のマールバラ公の伝記執筆などの著作や描画に専念した。1939年9月にポーランドに侵攻したアドルフ・ヒトラー率いるドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまると、チャーチルは内閣に招かれて再び海相に就任した(この時海軍は「ウィンストンが帰ってきた (Winston is back)」と艦隊に発信している)。1940年にはネヴィル・チェンバレンの後任として首相に任命され、みずから国防相を兼任して陸海空の参謀総長(海軍については第一海軍卿)を直接指揮する形をとり、挙国一致内閣を率いて戦時指導にあたった。
チャーチルはラジオや議会での演説を通じて国民に戦争協力を呼びかけ、総力戦を組織化していき、ドイツ空軍による「バトル・オブ・ブリテン」を勝利に導いた。さらに1941年には、中立を保っていたアメリカ合衆国のフランクリン・D・ルーズベルト大統領との協力の下、武器貸与法に基づきアメリカからの武器貸与を受ける手はずを整えた。
エル・アラメインの戦いやハスキー作戦で勝利を収めたものの、アメリカ陸軍のジョージ・パットン将軍と個人的な衝突をおこした他、ドワイト・D・アイゼンハワー将軍とも対立したバーナード・モントゴメリー陸軍少将の処遇にはかなり手を焼いている(この頃を描いた映画が "Into the Storm" である)。更に日本軍の侵攻の危機にさらされたオーストラリアの防衛を巡って、ロンドンに派遣されていたオーストラリア外相のハーバート・エバットとも衝突した。
しかしその後、アメリカやソビエト連邦などの他の連合国との協力関係を元に戦局を挽回し、戦争が終結に近づくと、ヤルタ会談ポツダム会談などに参加して戦後体制の策定にも携わった。しかし、大戦の終わる直前の1945年7月におこなわれた総選挙で保守党はクレメント・アトリー率いる労働党に敗北した。
敗北が確定したのはポツダム会談中だったため、同行していたアトリーに全権を委ねて帰国することになった。このためチャーチル第二次世界大戦のイギリスの勝利のみならず、連合国の勝利に大きく貢献したにもかかわらず、勝利の瞬間を首相として祝うことは叶わなかった。
ハリー・S・トルーマンの招きでアメリカを訪問し、各地で演説を行ったが、1946年3月5日にミズーリ州フルトンで行った演説でヨーロッパの東西分断を評した「鉄のカーテン」演説を行い、自由主義陣営の盟主のアメリカと、共産主義陣営のソビエトを軸にした冷戦の到来を予言した。
1955年、チャーチルは首相職をアンソニー・イーデンに譲り、引退した。1963年にはアメリカから名誉市民権を贈られたが、その頃には頻繁に心臓発作をくり返すようになり、式典に出ることができなかった。次第に恍惚状態になることが多くなり、1日に頭がはっきりしているのは2、3時間という有様であったという。1965年1月15日に脳卒中で倒れ1月24日午前8時頃に息を引き取った。その後、平民としては史上初となる国葬によって葬られた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
チャーチル (1874-1965) 91歳で死亡 (一部抜粋しています)
剛毅不屈、ヒトラーとの戦いで一身もって大英帝国を救ったウィンストン・チャーチルは、第二次世界大戦後の世界処理について英、米、ソが議した1945年7月から8月にかけてのポスダム会談の第1回会談には意気揚々と出席したが、第2回からはアトリーに代えられている。
冷徹なイギリス国民は、7月上旬の総選挙で、「乱世の雄」チャーチルにひきいられる保守党をしりぞけて、福祉国家をかざす労働党のアトリーを選んだのである。チャーチルはあっけにとられ、「これはわが党の長い歴史の中で蒙(こうむ)った最悪の災厄だ」といった。
その後彼は『第二次大戦回顧録』の執筆に専念したが、首相への復活の執念は捨てず、1951年ついに返り咲きを果たしたが、1954年4月、彼が下院で登壇したときのようすを「ニューヨーク・タイムズ」は次のごとく伝えている。
「ウィンストン卿はくたびれはてたような、自信なげなようすで姿を現わした。それはもう、1940年の偉大な人物の残骸でしかなかった。答弁にあたってもウィンストン卿はつじつまの合わないことをいっていた」。この年チャーチルは80歳である。
チャーチルは固着妄想のごとく大英帝国をなお夢みたが、テヘラン会談のとき彼自身が歎いたように、「アメリカの大野牛とロシアの大熊のあいだにはさまれた哀れなロバ」。イギリスの命運−−イギリスがヨーロッパの1国家に過ぎない存在に落とされてゆく時代の流れはいかんともしがたかった。それはまた大戦に際し、イギリスを救うためにソビエトを援助し、アメリカに援助を求めたチャーチルが、みずからまねいた運命でもあった。
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1955年、彼は首相を辞任し、ケント州チャートウェルに隠栖した。
その後も、その広大な邸宅の上には、チャーチルの紋章入りの旗を軍艦旗のごとくひるがえし、来客は彼のバラ色の顔を見て驚嘆した。
しかし彼はやがて心臓発作をくりかえすようになり、次第に恍惚状態となり、1日に頭がハッキリしているのは2、3時間というありさまになり、ただ食事時間になると眼に生き生きとした光るがもどるようになった。
それでも彼は、1963年アメリカ名誉市民権を贈られたとき、彼自身は出席出来なかったが、謝辞の中で「私はイギリスが今や世界のおとなしい役割に追放されたという見解を拒否する」と豪語した。
しかし、かって自由世界に希望の火をともしたこの燃える光は、こうして深い霧の中をただよいながら、次第に衰弱し、消滅していった。
最後の日に近い誕生日に、彼は娘に述懐した。「私はずいぶんたくさんのことをやって来たが、結局何も達成できなかった」
死亡したのは1965年1月24日午前8時であった。
「何もかもウンザリしちゃったよ」というのが最後の言葉であった。

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