じじぃの「人の死にざま_487_M・アントワネット」

マリー・アントワネット - あのひと検索 SPYSEE
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マリー・アントワネット(予告編) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=IywBcCwfW8w
マリー・アントワネット フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュは、フランス国王ルイ16世の王妃。
ハプスブルク=ロートリンゲン家の出身で、オーストリア大公マリア・テレジアとその夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの十一女。結婚前のドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルクロートリンゲンフランス革命中の1793年に刑死した。
【生涯】
マリア・アントーニアは1755年11月2日、ウィーンで誕生した。
1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。
マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、趣味・気質などの不一致や、ルイの性的不能もあって(後日、その治療を受けるまで子どもは生まれなかった)、思わしくなかったと言われる。彼女はその寂しさや慣れないフランス王室での生活を紛らわすため奢侈に没頭していたという説があり、夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしたという。また彼女は大変に移り気かつ享楽的な性格で、読書も嫌いであったという。
1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。
アントワネットはファッションに浪費はしたが、凝ったスタイルのファッションは好まず、簡素なデザインのものを好んだ。プチ・トリアノン宮で田舎娘の格好をするのを好み、この頃ローザ・ベルタンはアントワネットのために袖や長い裳裾を取り払ったスリップドレスをデザインしている。ここではポリニャック伯夫人などの、極端に寵愛したお気に入りの少数の貴族達のみしか出入りできなかった。
こうした中で、マリー・アントワネットスウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの浮き名が、宮廷では専らの噂となった。地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族達を無視し、彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難した。
彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったという。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。
1785年には、マリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。このように彼女に関する騒動は絶えなかった。
これらはルイ16世が側室や愛人を生涯において一人たりとも持たなかったため、格好の標的にされてしまった事も大きい。
1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス革命が勃発した。ポリニャック伯夫人ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは、彼女を見捨てて亡命してしまう。
10月15日、彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。
処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベト宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。この遺書は看守から後に革命の独裁者となるロベスピエールに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。遺書はフランス革命後に再び発見され、マリー・テレーズがこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
マリー・アントワネット (1755-1793) 38歳で死亡 (一部抜粋しています)
オーストリアの女帝マリア・テレサの娘として15歳のとき、フランスのルイ16世の妃となり、やがて皇后となったおてんば娘マリー・アントワネットは、フランス革命が起ると、将来の天真爛漫な言動が、かえって民衆の憎しみの標的となった。
飢えている民衆があるということを聞いて、「パンがなければお菓子を食べればいいのに」といったというような風評が伝えられたのはその好例である。悪意はないにしろ、彼女はたしかに誤解を受けるような軽佻(けいちょう)な性格の持ち主であり、かつ遊び好きのぜいたくやであった。
しかるに革命勃発後の1791年、オーストリアに逃れようとして捕えられ、1793年夫ルイ16世が処刑され、自分もまた断頭台の運命に近づくや、彼女はマリア・テレサの娘にふさわしい剛毅な態度を発揮しはじめた。
1793年10月16日、革命広場(いまのコンコルド広場)の刑場へ向かう馬車の上で、悪罵する群衆を、彼女は冷然と見下ろしていた。
彼女はその前の70日間のコンシェルジュリー幽囚の間に、まだ38歳であったのに、髪は真っ白になり、子宮出血症のために悩まされて、さながら老婆のように変わっていた。
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シュテファン・ツヴァイクは書く。
「・・・・王者はすべての助けをしりぞけながら、断頭台の木の階段を上ってゆく。かってヴェルサイユの大理石の階段を上がった時とまったく同じに軽やかに弾(はず)みをつけて、黒繻子(じゅず)のハイヒールの靴で、最後の階段を上ってゆく。いとわしい群衆の頭上はるかに、今日彼女の前なる大空にうつろな一瞥(一瞥)を与えるばかりである。・・・・何人も死にゆく人の最後の思いを知らない。刑使たちは彼女をうしろざまにつかんで、首を刃の下に、身体を板の上にさっと投げる。縄を引く。閃光一閃(せんこういっせん)、刃は落下し、にぶい音をたてる。すでに処刑人サンソンは血のしたたる首の髪の毛をひきつかんで、広場の上に高々とさしあげる」 (高橋禎二、秋山英夫訳)

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