白瀬矗 - あのひと検索 SPYSEE
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南極観測船「しらせ」進水式(京都府・舞鶴市) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=NHl6s-vjHko
白瀬南極探検隊記念館
http://kenbun55.web.infoseek.co.jp/nankyoku.htm
白瀬日本南極探検隊100周年記念プロジェクト
http://www.shirase100.jp/event1.html
白瀬矗 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
白瀬矗は、大日本帝国の陸軍中尉であり、南極探検家。
【生涯】
秋田県由利郡金浦村(現在のにかほ市)出身。浄蓮寺の住職、白瀬知道・マキエの長男として生まれた。11歳の頃に寺子屋の教師、佐々木節斎より北極の話を聞き、探検家を志す。この時佐々木は、白瀬に対し5つの戒めを課した。それは酒、煙草、茶、湯を絶ち、そして火にあたらないというものであった。白瀬は生涯これを守り続けたとされる。
1881年(明治14年)に教導団を卒業、伍長として仙台に赴任。1887年(明治20年)には同地の海産問屋の娘、やすと結婚した。1893年(明治26年)に予備役となり、幸田露伴の兄、郡司成忠大尉率いる千島探検隊(千島報效義会)に加わる
1909年(明治42年)にアメリカの探検家ピアリーの北極点踏破のニュースを聞き、北極探検を断念、目標を南極点到達とする。しかしシャクルトンが南緯88度23分に到達したと知るや意気消沈、イギリス政府がスコットが南極探検に来年も挑むと発表すると、競争を決意した。
1910年(明治43年)探検の費用補助を帝国議会に建議(「南極探検ニ要スル経費下付請願」)、衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶみ3万円の援助を決定するも補助金を支出せず、渡航費用14万円は国民の義援金に依った。政府の対応は冷淡であったが、国民は熱狂的に応援した。同年7月5日に神田で南極探検発表演説会を開催、当日南極探検後援会が組織され、幹事に三宅雪嶺・押川方義・桜井熊太郎・村上濁浪・田中舎身・佐々木照山、会長には大隈重信が就任した。しかし船の調達が難航し、最終的に千島探検で険悪の仲となっていた郡司に頭を下げ、元漁船で、千島遠征に使用された積載量僅かに200トンという木造帆船を買い取ることになる。船は中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施され、「開南丸」と命名された(命名したのは東郷平八郎である)。極地での輸送力は29頭の犬だった。
1946年(昭和21年)、愛知県西加茂郡挙母町(現豊田市)の、次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。死因は「栄養失調による餓死」(または腸閉塞とも。2007年6月11日朝日新聞夕刊より)。享年85。
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
白瀬矗(しらせのぶ) (1861-1946) 85歳で死亡 (一部抜粋しています)
明治45年1月、元陸軍中尉白瀬矗は、「白瀬探検隊」をひきいて、日本人としてはじめて南極大陸に上陸し、装備不充分のため極点到達には成らなかったものの南緯80度5分付近に達して「大和雪原(やまとせつげん)」と命名した。時に彼は51歳であった。約2ヵ月後、イギリスのスコット隊は吹雪の中に全滅した。
帰国後の白瀬の後半生は、探検のための巨額な借金との苦闘についやされた。彼は南極探検時数分間のフィルムをたずさえ、全国を講演してまわった。住むに家なく、横浜生麦(なまむぎ)の井上馨邸の別荘番などをやったこともあった。
彼が80歳のとき太平洋戦争が起り、その結果日本の海外領土はすべてとりあげられた。昭和21年6月、85になり、娘の武子によれば「日本の探検王と騒がれた昔の面かげはなく、全く忘れられた人として」寂しく暮らしていた白瀬は、マッカーサー司令官宛てに、「私は戦犯なのでしょうか。南極の領土権はどういうことになるのでしょうか」と質問の手紙を出した。これに対して、マッカーサーの名をもってした返事は「あなたは戦犯ではない。日本の南極領土権の問題は講和条約が結ばれるさい、然るべく考慮されるでしょう」とあり、最後に「プア・ミスター・シラセ」(気の毒な白瀬さん)と、しるされていた。
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その年の9月、彼は愛知県西加茂郡挙母町のうなぎ屋2階の四畳半に間借りして、栄養失調の老身を横たえていたが、3日、めずらしく白米の配給があり、同じく配給の福神漬けを菜(さい)にこれをたべたあと、俄に劇しい腹痛を訴えた。往診してきた医者は腸閉塞(ちょうへいそく)と診断した。久しぶりに御飯をあたえられて、老いた腸が驚いたのかもしれない。
翌日9月4日、彼は妻や娘たちに、「死ぬことは怖れないが、講和の日まで生きていられないのが残念だ。南極のことについてはマッカーサー元師の御慈悲におすがりしろ。・・・・」と、しぼり出すように息絶えた。
−−昭和59年処女航海した3代目の南極観測船は、1.5メートルの氷を割りつつ時速6ノットで走る新鋭の砕氷船であったが、船名は「しらせ」と名づけられた。
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白瀬矗 Google 検索
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