じじぃの「人の死にざま_472_L・フロイス」

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ルイス・フロイス 日本史
http://www1.asitaka.com/ihs/fr-jphis.htm
ルイス・フロイス フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ルイス・フロイスは、ポルトガルカトリック司祭、宣教師。イエズス会会員。
【生涯】
1532年にリスボンに生まれる。1541年、9歳でポルトガルの宮廷に仕え、1548年、16歳でイエズス会に入会した。同年、当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。このことがその後の彼の人生を運命付けることになる。1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価されて各宣教地からの通信を扱う仕事に従事した。
1563年、31歳で横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して念願だった日本での布教活動を開始。
1569年、入京した新しい中原の覇者織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている(フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、日本史における重要な資料の一つになっている)。
その後は九州において活躍していたが、1580年の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。1583年、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が後に『日本史』とよばれることになる。
当初、豊臣秀吉は信長の対イエズス会政策を継承していたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになり、1587年6月19日には伴天連追放令を出すに至り、フロイス畿内を去って加津佐を経たのち長崎に落ち着いた。
1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見した。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年に長崎に戻り、1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月8日没した。65歳。フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになった。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ルイス・フロイス (1532-1597) 65歳で死亡。 (一部抜粋しています)
1532年ポルトガルに生まれたルイス・フロイスは、いわゆる伴天連(バテレン)として1563年(永禄6年)31歳のとき日本にやって来て布教につとめ、その間まざまざと自分の眼で見た戦国時代から織田、豊臣に移る『日本史』を書き残した。おかげで、
「この尾張の王は37歳、長身痩身で髯は少ない。声ははなはだ高く、武技を好み、粗野である。傲慢で名誉を重んじ、決断を秘し、戦術に巧みでほとんど規律に服しない。部下の真言に従うことは稀である。
彼は諸人から異常な畏敬を受け、日本の王侯をことごとく軽蔑している。
彼は理解力と明晰な判断力を持ち、神仏その他の偶像を軽視し、異教一切の占いを信じない。宇宙に造物主などなく、霊魂不滅などいうことなく、死後は無であることを明らか説いた。人との話はまわりくどいことを嫌った」
などいう、同時代人から見た近代的な信長像をわれわれは得ることになる。
しかし、苦難にみちた35年の伝道もむなしく、彼の最後の10年間は秀吉の禁教令のもと、烈しい弾圧の中にあり、慶長2年7月8日、朝鮮役のばなか、長崎で彼は病死した。
彼は死ぬ1年ほど前から片足が腫(は)れて激しく痛み、ついで手がしびれ舌がもつれた、と1959年度の『耶蘇会士日本年報』にある。死の前年に長崎で、いわゆる26聖人の殉教を未、彼の心は暗澹たるものであったと思われる。
しかも、彼が心血をそそいで、和紙に墨で書いた厖大(ぼうだい)な『日本史』はイエズス会の幹部から黙殺され、空しくマカオイエズス会の倉庫に放りこまれたままになり、彼は悲嘆のうちに死んだ。それも200余年後焼失してしまった。(ただ幸いに別に模写したものがあった。日本人の切支丹学者松田毅一が苦心して蒐集し、その全貌がはじめて明らかになったのは1980年になっからのことであった)

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