じじぃの「人の死にざま_471_十返舎」

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十返舎一九
東海道というと誰もが思い浮かべるのは、「東海道中膝栗毛」に出てくる弥次さん、喜多さん。東海道の名所紹介をヒョウキンな二人の道中に仕立てたこの滑稽本は、当時の娯楽小説として爆発的なベストセラーとなり、江戸中の風呂屋や床屋は一九の話題でもちきりだったといいます。ところが、失敗しても明るい朗らかな弥次さん喜多さんを、洒落と風刺の利いた軽妙な筆で描いた十返舎一九は、なかなかの気むずかし屋さんだったとか。
http://www.ochakaido.com/rekisi/jinup/jinup02.htm
十返舎一九 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
十返舎一九(明和2年(1765年) - 天保2年8月7日(1831年9月12日))は、江戸時代後期の大衆作家、浮世絵師。日本で最初に、文筆のみで自活した。『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。
【生涯】
武士の子として、駿府(現在の静岡市)府中に生まれた。
江戸に出て武家奉公をし、天明3年(1783年)(19歳)、大阪へ移り、町奉行田切土佐守に勤仕したが、ほどなく浪人し、義太夫語りの家に寄食し、浄瑠璃作者となった、また、志野流の香道を学んだ。寛政元年(1789年)(25歳)、『近松与七』の名前で、浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』を合作した。
享和2年(1802年)に出した滑稽本『浮世道中膝栗毛』が評判を呼び、文政5年(1822年)までの21年間、次々と続編を書き継ぎ、大流行作家となった。並行して出した『方言修行 金草鞋』(むだしゅぎょうかねのわらじ)も広く読まれた。これらが迎えられた事情には、当時、人々の識字率が高まってきていたという理由もあった。
頻繁に取材の旅をした。山東京伝式亭三馬曲亭馬琴、鈴木牧之らと交わった。
文化7年(1810年)46歳のときに眼を病み、しばしば再発した。文政5年(1822年)58歳のときに中風を患い、その後は「名を貸しただけなのでは」と疑われる、一九らしくない作風の「著書」も混ざった。晩年を貧しく過ごしたのち、天保2年(1831年)8月7日、67歳で没した。辞世の句は『此世をば どりやおいとまに せん香と ともにつひには 灰左様なら』。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
十返舎一九(じゅぺんしゃいっく) (1765-1831) 67歳で死亡。 (一部抜粋しています)
東海道中膝栗毛』の一九は、晩年神田通油町に住んでいたが、文政12年3月21日の退化で類焼し、長谷川町に借宅したころから衰えはじめた。
馬琴は書く。「この頃より手足偏枯の病にてついに起たず、天保2年辛卯の秋7月29日日没す」
辞世にいう。
「此世(このよ)をばどりやおいとまに線香とともについには灰左様なら」
死後、焼場で棺桶を焼いたら、彼のいたずらで花火が飛び出したという伝説が生じた。しかし一九自身はのんき者だが、まじめ人間で、旅中でも黙々として終始メモばかりとっているような人柄であった。もっとも大酒呑み出、晩年手足が不自由となったのも酒毒のためであったという。

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