じじぃの「人の死にざま_470_貝原・益軒」

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貝原益軒アーカイブ 中村学園大学
江戸時代の偉大な儒者であり、自然科学の分野にも幅広く通じていた貝原益軒寛永7(1630)年〜正徳4(1714)年)の墓は夫人(貝原東軒)の墓とともに本学からほど近い福岡市中央区今川の金龍寺にあります。
http://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/
貝原益軒 ウィキペディアWikipedia) より
貝原益軒は江戸時代の本草学者、儒学者筑前国(現在の福岡県)福岡藩士、貝原寛斎の五男として生れる。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛
幼少のころから読書家で、非常に博識であった。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体でより多くの人に判るように書かれている。
70歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に六十部二百七十余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』、『菜譜』、『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』。思想書の『大擬録』。紀行文には『和州巡覧記』がある。

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『養生訓 第62章 交接の回数と年令』 貝原益軒
男女交接の期は、孫思ばく(古代中国の医者)が千金方に曰(いわく)、人、二十の者は四日に一たび泄(もら)す。三十の者は八日に一度、四十の者は十六日にひとたび。五十の者は二十日にひとたび、六十の者は精をとじて泄らさず。もし体力さかんならば、一月に一たび泄らす。気力すぐれて盛んなる人、欲念を抑え、こらえて、久しく泄らさざれば、腫物を生ず。六十を過ぎて欲念おこらずは、とじて泄らすべからず。若く盛んなる人も、もしよく忍んで、一月に二度泄らして、欲念起こらずは、長生なるべし。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
貝原益軒(かいばらえきけん) (1630-1714) 84歳で死亡。 (一部抜粋しています)
貝原益軒は78歳で、それまで損軒と称していたのを益軒と変え、これ以後、いわゆる『女大学』をはじめ、彼の名を有名にした大衆教訓書を書き出した。時に、年齢に適当した性交回数まで説いた『養生訓』は世に知られている。
いわく、「二十の者は四日に一たび泄(もら)す。三十の者は八日に一度、四十の者は十六日にひとたび。五十の者は二十日にひとたび、六十の者は精をとじて泄らさず。・・・・」
しかし益軒は、性交回数は知らず、39歳のとき17歳の花嫁をもらったが、子供が出来ないので3人の妾を持ってみたが、ついに子が出来なかった。
とはいえ、将来蒲柳(ほりゅう)のたちだが健康に対する注意と克巳のと句で長生きした、と彼自身述べ、特に後半生においては常人以上の健康ぶりを誇っていた益軒も、80を越えてからはようやく衰えを見せはじめた。数え年83の正徳2年には、「脾胃調(ひいととの)い難く候。時々微泄仕り候ゆえ、元気衰え、対客長談成り難く・・・・」云々と知人への手紙に述べている。不時に大便をもらすようになったのである。
翌年の12月末、妻を失い、彼はいよいよ元気を失い、その翌年の2月まで客を一切ことわって家に閉じこもっていたが、4月からは足が麻痺して立てなくなった。
その年、正徳4年8月27日に最後の息をひきとった。彼が生前排仏論を主張していたので、呼ばれた和尚は、黙って坐っているだけでお経を唱えなかった。

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