じじぃの「人の死にざま_467_津田・仙」

津田仙 - あのひと検索 SPYSEE
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港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (津田 仙)
http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=62
プロジェクトJAPAN 「第22回 自立する女性のための学校を設立 津田梅子」 NHK
http://www.nhk.or.jp/japan/pjyotei/prg_100207_1.html
津田仙 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
津田仙(つだせん、天保8年7月6日(1837年8月6日)-明治41年(1908年)4月24日)は、日本の農学者、キリスト者。学農社創立者同志社大学青山学院大学筑波大学附属盲学校の創立に関わる。また、日本で最初に通信販売を行った人物でもある。同志社大創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東京帝国大学教授の中村正直とともに、“キリスト教界の三傑”とうたわれた。明六社会員。娘に、後に津田塾大学創設者となる津田梅子がいる。
【経歴】
佐倉城内に生まれる。父は下総国佐倉藩、堀田氏の家臣小島良親(善右衛門)4男に生まれる。幼名は千弥。嘉永4年(1851年)、元服して桜井家の養子となる。文久元年(1861年)に津田家の初子と結婚し婿養子となる。
15歳で佐倉藩藩校、成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で学び、藩主堀田正睦の洋学気風もあり、藩命でオランダ語、英語の他、洋学や砲術を学ぶ。安政2年(1855年)に出仕し、江戸では蘭学塾へ入門し、森山栄之助の下で英語などを学ぶ。文久元年(1861年外国奉行の通訳として採用された。慶応3年(1867年)、小野友五郎が幕府発注の軍艦引取り交渉のためアメリカへ派遣されるのに、福澤諭吉、尺振八の3人が通訳として随行する。
明治維新が成ると官職を辞して、明治2年(1869年)には築地の洋風旅館、築地ホテルに勤め、西洋野菜の栽培などを手がける。明治4年1871年)には明治政府が設立した開拓使の嘱託となり、女子教育に関心のあった開拓次官の黒田清隆が、政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画すると、娘の梅子を応募する。
足尾鉱毒事件では田中正造を助け、農民救済運動に奔走した。明治30年(1897年)には事業を次男に譲り引退、鎌倉で過ごす。明治41年(1908年)、東海道本線の車内で脳出血のため71歳で死去。葬儀は青山学院の講堂で行われた。
死後、内村鑑三新渡戸稲造らは追悼文を発表し,仙の事業を讃え、仙を「大平民」と呼んだ。

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日本史有名人 [おやじの背中]  新人物往来社/著 新人物文庫 2009年発行
津田梅子 近代日本の女性パイオニアを育て上げた父 梅田仙  (一部抜粋しています)
梅子数え4歳の慶応3年(1867)、勘定吟味役の小野友五郎の随員として、仙は福沢諭吉らとアメリカに渡った。そこで四民平等が基本の西洋政治、産業革命で発展する社会に感銘を受けて帰国した。しかし日本は戊辰戦争に突入し、幕臣として越後に走り、敗北を味わい、逃れて維新の東京に戻った。この間、仙は妻初子に手紙で、梅子に欠かさず読書をしつけるよう求めた。そしてこの後も仙は梅子の教育を怠らず、手習に通わせている。女に教育はいらないとする社会風潮の中で、アメリカを見た仙は、女も男と同等であるとの意識から、娘への教育に熱心だったのだ。
仙は己の生活の基盤だった幕府崩壊、薩長新政府の樹立という時代変革のもとで、官を頼らず、外国人居留地にできた築地のホテルにつとめ、また麻布に農園を開き、アメリカで興味をもった西洋野菜の栽培をはじめた。
仙の目はいつも西洋に向くなかで、開拓使女子留学生の募集を知って、娘梅子のアメリカ留学を願い出る。それは自分が驚愕したアメリカ社会で、未来への芽を育ててほしいという親心とともに、自分の夢を強引に娘に託すエゴ的な部分もあった。
かくてわずか8歳の梅子は親元を離れ、明治4年(1871)11月、他の4人の仲間とともに、欧米視察の岩倉大使一行に同行してアメリカに渡った。仙が旅立つ娘に送ったのは、「英語入門書」と「英和小辞典」であった。梅子はランメン夫妻の家で10年余りも世話になり、すっかりアメリカナイズされ、帰国した時には日本語を忘れていた。
仙は梅子をランメン夫妻に預けている間、知人の娘(梅子より2歳年下)を預かり、梅子の代わりに養育した。この女性こそ後の日本最初の女性記者となる松本英子であり、アメリカにも留学している。
仙はまた学農社農学校を設立し、青山学院女子部の前身である築地海岸女学校もつくる。仙も梅子同様にクリスチャンになる。梅子は父仙の姿を追いかけて、さらに父を乗り越えて、女子教育の先駆者となったといえる。
仙は足尾鉱山の鉱毒事件にも関心を示し、現地を視察し反対運動の世論を高める運動をする。仙に養育された英子は、購読の悲惨さを訴える記者となった。仙はわが娘と預かった娘を近代日本のパイオニアに育て上げたのである。 (楠戸義昭)

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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
津田仙 『津田仙評伝』草風館 日本で初めて環境問題に取り組んだ、早すぎた巨人 【執筆者】竹中朗 (一部抜粋しています)
忘れられた巨人−−という呼称はまさに、この男にこそふさわしいのではないだろうか。津田塾開祖津田梅子の父という紹介はそろそろやめにして、このスケールの大きな農学者を現代的な視点から再評価すべき時だろう。というのも、足尾鉱毒事件という日本初の社会的環境問題に学者として初めて取り組んだのは彼なのである。
水道水源汚染問題への献身や、「廃棄利用」というリサイクル思想の提起などを見ると、一世紀も早く生まれてしまったのではないかという思いさえすらする。
梅子の7歳での海外留学、また女子小学校(後の青山学院)設立などの女子教育への先見性、訓盲院設立など障害者教育への献身、禁酒禁煙・廃娼運動への肩入れ、西洋野菜や西洋風街路樹の日本への導入、それらの苗や種を頒布するにあたっての「通信販売」という画期的なテクニックの発想。
とにかく、この男を何かのカテグリーの中に押し込めて評価するのはかなりの難事である。明治人にはそのような大人物がしばしば見られ。「啓蒙」というキーワードが彼らを括ることになるわけだが、社会貢献という、明治におけるプロテスタンティズムの鍵となる思想をメソジスト派受洗者第1号として全身で体現したのが彼である。

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