じじぃの「アイスマン!本当はどうなんだろう」

アイスマンは最後にヤギを食べていた (追加) June 24, 2011 ナショナルジオグラフィック
エッツィは約5000年前の銅器時代のハンターで、1991年にイタリア北部のアルプス山中から凍った状態で発見された。死亡時の状況は完全には解明されていないが、背中の矢傷などから、山中を逃亡する途中で他のハンターに殺害されたという説が有力だ。
2008年の腸内残留物の分析では、死の最大30時間前に穀物のほか、調理したと見られるアカシカやヤギの肉も食べていたと判明。しかし胃の内視鏡でのサンプル採取は失敗した。内視鏡が届かなかった理由は翌年、CTスキャン画像の分析で明らかになった。胃が適切な位置になく、本来は肺の下部があるべき辺りまで死亡後に移動していたのだ。
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20110624002
"Otzi the Iceman" 1993 Horizon documentry on BBC 2 ( 4 of 4 ) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=eDhDxlk2nO8&feature=related
Otzi en het dilemma van geschiedenis 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=TFQHwDxLdHQ&feature=related
エッツィ 画像
http://www.eu-alps.com/q-a-site/austria/iceman02.jpg
エッツィ Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=TTn9TN_GL4G0rAfHpMGpCA&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCsQsAQwAA&q=%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A3%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1
『死体が語る歴史』 フィリップ・シャルリエ/著、吉田春美/翻訳 河出書房 2008年発行
エッツィ−−世界一有名な無名の男 (一部抜粋しています)
イタリアとオーストリアの国境にあるアルプスのシミラウン氷河で発見されたアイスマンことエッツィについては、これまでさんざん語られてきたが、このへんで、目下のところ学会全体で認められている科学的事実を整理しておこう。
1991年9月19日、ドイツの旅行者のカップル、エリカ・シモンとヘルムート・シモンがセナーレス渓谷の小さなくぼみでその遺体を発見したとき、頭と上半身だけが氷から出ている状態だった。オーストリア警察は、死体が見つかったときに必ずそうするように、ただちに捜査に乗り出した。その遺体が紀元前4000年代のものであると考えた者はひとりもいなかった。遺体の重要性が明らかになると、その所有権をめぐって、測量の専門家のあいだで喧々諤々の論争が巻き起こった。そしてとうとう、1991年10月2日に、92メートルだけイタリアに近いということで、遺体はイタリアのものになった。その間にも、遺体の周囲からは、弓の破片と矢、皮の切れ端、綱、ベルト、各種の植物、フリントの短刀など、さまざまなものが掘り出された。
氷の中から遺体が取り出されたのは9月23日になってからで、インスブルック法医学研究所のヘン教授が現場に立ち会った。ミイラは研究所で解凍され温度が18度まで上がったところで、消毒と菌の繁殖を防ぐために酸をふりかけ、その日のうちに解剖学研究所に運ばれて、湿度98パーセント、マイナス6度で再び凍結された。1998年6月の終りに、遺体はボルツァーノ(イタリア)の州立病院に運ばれ、さらにアルト・アーディジュ考古学博物館へと移された。遺体はいまでもこの博物館にあり、世界中からやってくる旅行者がガラス越しに見学できるようになっている。
遺体の発見場所での考古学の発掘は、1991年10月3日から5日にかけて行われ、遺体の周囲の半径4、5メートルのところから、植物性のマントの断片と綱の切れ端が掘り出された。1992年7月20日から8月25日にかけて、さらに入念な発掘調査が行われ、洗浄水と1ミリサイズのフィルターで濾過処理を行った結果、表皮のかけら、筋肉繊維の切れ端、爪、動物の皮の破片などが見つかった。
遺体は当初、第二次世界大戦中に行方不明になった飛行士のもの、次に、1970年代に死亡した登山家のものだと考えられた。のちの放射線炭素の年代測定にとって、紀元前3350年から3100年にさかのぼる、青銅器時代の人間の遺体に間違いないことが判明した。
遺体の保人状態は驚きほどよく、氷によって自然にミイラとなったため、その時代の人間の遺体としては、きわめて異例な調査が行われた。考古学者だけでなく古病理学者にとっても、またとないチャンスであった。
発見当初にピッケルで掘ったときに傷つけてしまった右脇腹を除いて、遺体の保存状態はきわめてよかった。遺体はほとんど裸だったが、右足に靴をはいていた。それぞれ衣服の一部であった動物の皮の切れ端からは、使われた動物が同定された。山羊、鹿、牛、ヒグマ(「ベレー帽」に使われた)、シャモア(高山に棲む野生の山羊)である。おもな持ち物は、銅製の斧、フリントの短刀、弓、14本の矢の入ったシャモワの皮の筒、大型草食動物の腱2本(いざというときに使うための紐?)、ピン4本、鹿の角でできた穿孔器であった。考古学者たちはベルトのポケットから、剃刀、別の穿孔器、ふりんとの刃を見つけ出した。さらに、針、穴のあいたちいさな医師の円盤(当初はペンダントかお守りであると考えられた)、カバノキの樹皮の内側にカエデの葉を巻きつけた容器も発見された。
現在のミイラの体重は15キロしかないが、エッツィが生きていたときには40キロはあっただろう(身長160センチ)。
人類学の調査によって、いくつかの身体的な特徴のあることが明らかになった。上下4本の第3臼歯(親知らず)がないこと、歯のエナメル質の摩耗が激しいこと(とくに左上顎)、虫歯がないこと(現在知られている同じ時期の骨でしばしば見られる)、左肋骨のあたりに癒合した古い複雑骨折があること、右肋骨の左上腕骨に癒合していない新しい骨折があること(死後長いあいだ氷河に圧迫されていたからなのか、それとも死ぬまぎわに折れたのだろうか)、右足小指の関節に嚢胞のあること(活発に歩き回っていたことによる)、加齢による(40歳から53歳)動脈の石灰化が進んでいることである。
また、非常に珍しいことに、腰のあたり、右膝、右の脛骨と足根骨の関節(踝(くるぶし)のあたり)に刺青が確認された。刺青といっても十字や平行線で、それほど念入りに彫られたものではなかった。筋肉や腱や関節に強い力のかかるところに刺青が施されていることから、それは治療のため、あるいは少なくとも鎮痛のための刺青であろうと診断された。刺青を彫れば本来の傷みを感じなくなるというわけである。もっと現実的な理由としてな、刺青を彫ったときに熱が出て、一時的に麻酔のかかった状態になることが考えられる。とはいえ、これも暗示をかけているにすぎないが、また、伝統的な漢方(鍼灸)で行われているように、ツボに沿って刺青が施されていると考える人たちもいる。
Y染色体ハプロタイプ(特定の遺伝子集団に見られる対立遺伝子の組み合わせ)の比較に基づいた遺伝子の研究では、エッツィが中部ヨーロッパの原アルプス人の集団に属していることが明らかになった。いっぽう、キャンベラ大学のウォルフガング・ミューラーが行った歯の毒物・元素分析によって、エッツィの出身地も発見場所の近くである可能性が出てきた。ストロンチウムや鉛のようないくつかの間ーケーを比較対照した結果、遺体の発見場所から少し南に下った、イタリアのエイザック地方に生活圏があったと考えられる。
ボルツァーノの州立病院のゴストナー博士が行ったX線画像検査によって、ミイラの胸部に奇妙な物体があることが明らかになった。胸膜(肺のそばにある)と腕の付け根の大静脈の間に、矢の先端が刺っていたのである。矢の刺さった場所からいって、呼吸器が激しい出血を起こし、あるいは損傷を負って、命を落とした可能性がある。このときなんとか生き延びたとしても、ボルツァーノの法医学者エドゥアルト・エガーター・ヴィィゲル博士が述べているように、感染が広がって、おそらくそれほど長くは生きられなかっただろう。左型の入射口は、ミイラの外皮を双眼ルーペで再度細かく調べているときに発見された。オーストリアでの最初の検査では完全に見逃されていたのである。
エッツィの調査では、分士生物学が考古学に大いに貢献することも明らかになった。ブリスベーン考古学研究所(オーストラリア)の研究員トマス・ロイは、短刀の表面、矢筒に残っていた折れた矢、4種類の皮膚のサンプルそれぞれに付着していたミトコンドリアDNAがまったく異なることを明らかにした。つまりそれらのDNAは別々の人物のものだったのである。とすれば、エッツィは、複数の襲撃者と必死に戦っている最中に死んだのだろうか。これは殺人なのか、戦争をしていたのか。いずれにしても、安らかに死んだとはとてもいえない状況である・・・・。

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どうでもいい、じじぃの日記。
ぼけっと、『死体が語る歴史』という本を見ていたら、「アイスマン」のことが書かれていた。
イタリアとオーストリアの国境のアルプスで発見された人間の遺体で、エッツィ谷で発見されたのでエッツィと命名された。
今から約5300年前に生きていた人間で、発見されたときは頭と上半身だけが氷から出ていたのだという。
地球温暖化でアルプスの氷が融け、氷に閉じ込められていた遺体の一部が出て出てきたのだろうか。
「4種類の皮膚のサンプルそれぞれに付着していたミトコンドリアDNAがまったく異なることを明らかにした。つまりそれらのDNAは別々の人物のものだったのである」
そのうち、脳の解剖の結果、4人と戦っていて死んだことが分かったのです。なんて。
1984年2月12日、43歳の誕生日にマッキンリー世界初の厳冬期単独登頂を果たした植村直己さんが、翌2月13日の交信後連絡が取れなくなり消息不明となった。
植村直己さんもそのうち、マッキンリーの氷から体の一部が出てくるのだろうか。