じじぃの「人の死にざま_452_広田・弘」

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広田弘毅 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
廣田弘毅は、日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。旧名は丈太郎。新字体広田弘毅とも表記される外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任した。A級戦犯となり死刑となった。
【生涯】
1878年明治11年)2月14日、福岡県那珂郡鍛冶町(のち福岡市中央区天神三丁目)の石材店を営む広田徳平の息子として生まれた。
第一高等学校、東京帝国大学法学部政治学科に学んだ。学費は玄洋社の平岡浩太郎が提供している。
1927年(昭和2年)、オランダ公使を拝命。1930年(昭和5年)から1932年(昭和7年)にかけて、駐ソビエト連邦特命全権大使を務めた。当時は学歴立身出世の典型として知られた。着任後、満州事変が勃発。政府は軍を直ちに撤兵させる旨を各国政府に通告するよう駐在大使・公使に訓令を出したが広田は慎重な態度をとり、ソ連に通告を出さなかった。関東軍は撤兵することなく永久占領の形でチチハルに居座り、駐在大使・公使が各国政府の信頼を失う中、モスクワだけが例外となった。
1933年(昭和8年)9月14日、斎藤内閣の外務大臣に就任。これは内田康哉前外相の人選によるものである。
1934年(昭和9年)4月17日、天羽英二情報部長が中国大陸に対する外国の干渉を退けるという趣旨の会見を行った(天羽声明)。この発言を欧米諸国は「東亜モンロー主義」であるとして激しく非難し、外務省内部からも反発された。天羽の発言は広田外相名義で有吉明駐華公使に宛てた公電であったが、この公電の内容を指示したのは外務次官の重光葵であった。広田はグルー米大使などに第三国の利益を害するものではないと釈明を行ったが、天羽や重光が処分されることはなかった。同年7月3日、斎藤内閣は総辞職したが、続いて岡田内閣でも続けて外相となった。
1936年(昭和11年)3月5日、天皇から組閣大命が下る。
就任後は二・二六事件当時の陸軍次官、軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、寺内寿一陸相ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を実行させた。しかし軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張予算を成立させるなど軍部の意見を広範に受け入れることとなる。
第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)開始時の広田の反応はさまざまなものが伝えられている。1941年(昭和16年)11月29日に開かれた重臣会議では、東条首相が「戦争に訴えざるを得ざる理由」を述べた。『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』では「阿部(信行)、林(銑十郎)、広田は首相の決意を諒とせるが如し」と、東条に同意したように描写している。一方で『木戸幸一日記』では会議で「危機に直面して直に戦争に突入するは如何なるものにや」「仮令(たとい)打ち合いたる後と雖も、常に細心の注意を以て機会を捉えて外交々渉にて解決の途をとるべきなりと思う」と発言したとされる。後に昭和天皇は広田の発言を「全く外交官出身の彼としては、思いもかけぬ意見を述べた」と評している。
戦況が悪化した1943年(昭和18年)頃の広田を、広田と面会した学生が「軍部の横暴に憤られ、それに抗しきれぬ東条内閣の無策を非難され、戦争は絶対勝てぬから早く終息させねばならぬとおっしゃり、日夜その方策に奔走されているようでした」と回想している。1944年(昭和19年)に東条内閣が倒れると、小磯内閣によって最高戦争指導会議が設置された。9月4日に開かれた会議では、和平仲介のため広田を特使としてソ連に派遣する決定を下した。しかしソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフによって特使受け入れは拒絶されている。1945年(昭和20年)6月にはソ連を通じた和平交渉を探っていた政府の意を受けて、箱根の強羅ホテルに疎開していたソ連大使ヤコフ・マリクと非公式の接触を図る。広田は私的な来訪を装ってソ連の条件を探り出そうとしたが、ソ連は既に対日参戦の方針を固めていたため、政府側が期待した返答を得ることはできなかった。8月10日の重臣会議では「無条件降伏も亦已むを得ない」と発言し、日本の降伏を迎えた。
南京事件 (1937年)】
南京事件は、日中戦争支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間から2ヵ月にわたって中国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、一般市民を不法に虐殺したとされる事件。「南京大虐殺」とも呼ばれ、その真偽や程度などが論議されている。
【八紘一宇
日中戦争から第二次世界大戦まで、大日本帝国の国是として使われた。1940年(昭和15年)7月26日、第二次近衛文麿内閣は基本国策要綱を策定、大東亜共栄圏の建設が基本政策となった。基本国策要綱の根本方針で、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」ことと定められた。
【評価】
日中戦争において、戦線の拡大に反対でありながら軍部に抵抗出来ず、東京裁判で文官でありながら唯一絞首刑となった点をとらえ、悲劇の外政家としての側面を描き出したのが、城山三郎の『落日燃ゆ』であり、今日におけるような、広田に対する同情的な見方が広まるのに一役買っている。
しかし絞首刑の是非はともかく、広田が外相・首相という責任ある立場にありながら、泥沼化する戦争にほとんど有効な手を打てないどころか消極的に追随していったのは事実であり、外交の専門家からの評価は概して厳しい。第一次近衛内閣の外相時の対応について、当時の外務省東亜局長であった石射猪太郎は「この人が平和主義者であり、国際協調主義者であることに少しも疑いを持たなかったが、軍部と右翼に抵抗力の弱い人だというのが、私の見る広田さんであった」と回想している。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
広田弘毅ひろたこうき) (1878-1948) 70歳で死亡。 (一部抜粋しています)
日中事変勃発当時の外相であった広田は、昭和21年1月15日、巣鴨拘置所に拘引され、A級戦犯として極東国際軍事裁判にかけられた。
それ以来、裁判のひらかれる日は、雨の日も風の日も、次女の美代子、3女の登代子の姿が傍聴席に見られた。夫人はほとんど巣鴨を訪ねなかったが、5月14日、珍しく広田に面会にいった。そして4日後の5月18日夕刻、遺書も残さず自殺した。面会時、広田との間にいかなる話があったは、知る者はいない。
夫人の死を知らされたとき、広田は深くうなずいただけで、一語ももらさなかったという。−−夫人の自殺は、当時は秘され、のち昭和28年の広田弘毅追悼会ではじめて一般に公開された。
拘置所で広田は終始平静でおだやかであった。同室の戦犯がトランプや碁(ご)をやるのを、そばで黙々と見ていた。トランプも碁も知っているのに、いちども手を出さなかった。
そして彼は、法廷で弁明のために、ついに証言台に立たなかった。弁護人が言葉をつくして勧めても、「私は立ちません」と、すげなくことわった。「もしものことがあったら御家族もあきらめられないでしょう。あなたのお嬢さんたちのためにも立って下さい」といわれたときも、「なに、家族の者は覚悟しているでしょう」と簡単に答えた。
2人の娘の訪れに、21年の秋から、満州からひきあげた長女の千代子が加わった。広田は傍聴席の娘たちをちらっと見て、しずかに微笑するだけであった。
しかし、判決最終日の前日の光景について、同囚の重光葵は書いている。「11月11日、その日の法廷を終えて我々のバスが市ヶ谷の地獄谷を下って行った時に、広田君の令息や2令嬢が正門の側に立ってハンカチを振っている姿を、目かくし窓のすき間から見つけた広田君が、席から立ち上がって気も狂わんばかりに帽子を振ったのは、静かなる広田君の平生を知る同囚者の眼に深い印象を残した」
その翌日、昭和23年11月12日、判決の日、広田は瞑目してウェッブ裁判長の宣告を聞き、デス・バイ・ハンギングのところで眼を開いたが、静かにイヤホーンをはずした。そして傍聴席の令嬢たちを見あげ、会釈し、いつものように微笑して去った。
彼は本裁判において、太平洋戦争に対する日本の共同謀議の共犯者、中国に対する侵略戦争の責任者、戦争中の残虐行為の責任者として有罪を宣告されたのだが、実質はその最後のもの、中でも南京大虐殺の罪を当時の外務大臣として問われたものであった。
この事件において「彼の不作為は犯罪的な過失に達するもの」と判決文にあるが、しかし軍人のやった行為で外相を死刑にするとは非常識である。
当時の首相近衛文麿が生存していたなら広田は少なくとも死刑をまぬがれたにちがいない。彼は近衛が自殺したために身代わりとしてその罪を負わされたものと思われる。
12月23日、絞首刑執行のとき、その直前に執行された東条、松井、土肥原、武藤らの「天皇陛下万歳」の声が聞こえて来た。広田は花山教誨師をふりむいて、「いま、マンザイをやりましたね」といった。
そして、彼地度維持に処刑される板垣と木村が万歳を唱えるときも、彼だけは黙っていた。
12月23日の午前零時20分、彼は絞首台の穴から消えた。

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